「ねえ、まだ生きてるよ……」
    「死んでないのか……」
    「……まだかなあ」
    「まだかなあ……」
     腐った屍肉に好んで群がる鴉たちの鳴き声が、いつしかそんな風に聞こえ始める。
     それはずっと彼を苛み続けている「元」友人たちの声だ。彼に向かって幾度とはなく投げつけられた罵倒の刃だ。
     こんな死の淵の間際まで追いかけて来るとは、何と執念深い奴らなのだろう。最期くらいは黙って静かに見送ってくれればいいものを。
     きっかけは何だったのかもう覚えてなどいない。
     しかし、毎日振るわれ続ける肉体的精神的暴力の嵐は一向に止む気配などなかった。それどころかそれは日々激しさを増して行き、この年齢特有の無邪気な残酷さで持って彼を追い詰めた。
     逃げろ。
     逃げろ。
     立ち向かう必要などない。
     耐える必要などない。
     負け犬でもいいのだ。
     長い人生をそんなことで棒に振る必要などない。
     何も知らない者たちは、無責任にも揃って逃避を促す言葉を口にする。
     だが一体、この閉ざされた街の中でこの逃げ場などない死角などない世界の中で、どこに逃げろと言うのか。どこに身を隠せと言うのか。
     例えその手を振り切ったところで、それはただ一時のことだ。
     追われて追われて、
     死ぬまで彼らの玩具であることに変わりはない。
     きっと解放されて自由の身になる日など永遠に来ない。
     じくり、じくり……
     意識が遠のきかける度に、それを引き留めるような呼吸で膿んだ傷が痛みを訴える。いや、痛いなどとは思わないから、それは単なる錯覚かそれともこんな世界にすら抱いている未練なのだろう。
     血が枯れて何日経った?
     皮膚が乾いて何日経った?
     助かることなど最早万に一つもありはしないのだから、いっそのこと潔く事切れればいいのにやはりそうならないのは、自分の弱さであり、狡さでもあるのだろう。
     断崖絶壁から転落し(正確には転落させられ)、そんな汚らしい内部を余すところなくぶち撒けて横たわっていると言うのに、それでもまだこんな風に終わりたくはないと思っているのだ。願っているのだ。自分の人生は、こんなはずではなかったのだ、と。
     生きたい、と言う程積極的ではないにしろ、確かに今彼は死にたくなかった。
     死にたくない。
     死にたくない。
     死にたく……
    「何処からか声が聞こえると思って来てみれば、吠えていたのはお前か」
     唐突に鼓膜を打った声に、彼は反射的に眼球だけを動かしてそれを発した主を見遣った。首はもうそちらを向いていたし、頭を擡げる力はなかった。
     腹の底にずしりと響くような、低いが張りのある声である。覇気に満ちた――しかしどことなく陰りを帯びたような暗い狂気を秘めているように彼には思えた。
     ずっとそちらを向いていたと言うのに、その男が一体いつ目の前に現れたのか彼には解らなかった。もしかするとずっとそこに佇んでいたのかもしれないし、瞬間移動のように現れたのかもしれない。どちらにしても問題ではなかったし、彼にとってはどうでもいいことだった。
     例えここが常人ならば降りて来ることも登って来ることも適わない荒波が飛沫く岩場だとしても。
    「死にたくない、か」
     男は嘲るように口端を持ち上げて彼を見下ろした。
     いや、実際嘲っていたのだろう。その視線はまるで虫螻を見遣るのと同じ視線だった。
     彼は今までたくさんの人間から馬鹿にされ愚弄されてきたが、これ程までに路傍の石を見るが如き刺し貫く視線を向けられたのは初めてだった。
     しかしそれは彼自身に向けられていると言うよりも、力なき弱い者全てに向けられた侮蔑の眼差しだった。
    「死にたくないか?」
    「……死にたくないです」
     正確には干涸らびた声帯はもう機能を果たしていなかったし、口唇も半分は何処かに行ってしまって動かせなかったから音としては答えを返すことが出来なかった。
     けれど、彼は必死になって訴えた。
     血溜まりのせいで朱に染まった世界に佇む男に向かって、必死の想いで訴えた。
    「俺は死にたくないです!」
    「いいだろう……それなら、お前に面白いものをやる」
     男は上着の懐から、小さな何かを取り出した。
     植物の種程の大きさのそれを、きちんと視認する前に弾けた腹の傷口にずぶりと埋め込まれてしまう。途端、緩やかな温もりが身体全体に広がって行き、じくじくとした嫌な感覚も刹那の内に消えた。
     半ば固まり腐りかけた血で汚れた指先を気にした風もなく、男は薄い刃のような笑みを口端に浮かべて彼を見遣った。
    「死にたくないなら強くなれ。強くなりたいのなら力を手に入れることを恐れるな。いいか、お前は俺に選ばれた人間だ。いや、今からそんな下らん概念を超越した存在になる」
     どくん!
     それまできちんと動いていたかどうかも怪しい心臓が、突然大きく拍動する。
     みしりと骨が嫌な音を立てて軋み、身体中の筋肉が悲鳴を上げる。壊れて散らばっていた己が集約される際、強制的に何か違うものに組み替えられて行くようだった。存在そのものを掻き回されて滅茶苦茶に蹂躙される。
     先程飲み込んだ何かが芽吹いて牙を剥く。
     その様子を煙草をくゆらせながら見守っていた男は、変貌していく彼の姿に双眸を細めて満足そうな笑みを浮かべた。
    「さあ、生まれ変わった新しい自分で、てめーを虚仮にして来た連中を血祭りに挙げてやれ! くく……楽しい宴の始まりだ」

    →続く