「死んだらきっと蛍になって、君に逢いに来るよ」
     そんな戯言を溢す君の声に、思わず桃の皮を剥いていた手が止まる。
     目に痛いほど橙色の夕焼けが照らす病室。遠く子供たちの歓声が、どこまでも透き通って空に吸い込まれて行く。
     ああ、そう言えば今日は近くの広場でお祭りがあるのだった、と今更ながら思い出した。
     クーラーの風は身体によくないから、と開け放した窓から温い風が入り込んで来て、白いレースのカーテンを揺らす。うるさいくらいに元気な蝉の声。どうせならそのエネルギーを、彼女に分けてくれればいいのに。
     どうしてこうも世の中ってのは儘ならないのか。
    「そう言うのって、普通蝶になって、って言わない? 死んだ人の魂が、蛍になるだなんて聞いたことないよ」
    「だって、蝶だと君が気づく前に、他の誰かに捕まえられてしまうかもしれないでしょう? あと暗いと解んないし」
    「僕は虫は嫌いだよ」
     そう言うと、彼女はベッドに横たわったまま、力なくふふ、と笑った。
     治ることはなく、ゆっくりと死に向かうだけだ、と聞いただけで、病名も詳細も僕は聞かされていない。知ったところでどうになるでもなかったし、それは多分彼女なりの心遣いだったんだろう。
     もう何日も太陽を浴びていない白い肌は、最早蜉蝣の羽根のように透き通って脆そうで、そこに降り注ぐ夕焼けは彼女を蝕むように見えて、恐らく終末のこの世を焼く業火と同じ色をしているのだろう、と僕はらしくないことを思った。
     どうせなら、彼女と共に滅べ。
     例え、君が笑いかけているのが僕ではないのだとしても。
     そう願うことくらいは、僕の自由だ。
    「水蜜桃だよ。これを食べたら元気が出るさ」
     爪楊枝に差した一つを差し出しはしたものの、彼女は首を横に振った。
    「君が食べなよ」
    「馬鹿を言うなよ、これはお見舞いの……」
     柔らかな口唇が、僕の手に滴り落ちた雫を捉える。ちゅう、と微かな音を立てて吸われ、温かな舌がゆっくりと跡を辿った。艶かしい仕草で僕の指を食んだ後甘噛みをした彼女は、やはり何かを含んだような意味深な笑みでふふ、と声をこぼした。
    「うん、甘いね」
    「…………」
     もし、今ここで彼女に口づけでもしたら、何か少しは変わるだろうか? いや、きっと何も変わらないだろう。
     ともあれ、彼女と会話を交わしたのはそれっきりだ。彼女はその日の内に病院の屋上から飛び下りて、死んでしまった。
     あれから何年経っても僕は彼女の命日の度に、近くの川へ車を走らせる。地元の人間くらいしか寄りつかないその場所は、彼女が死んだ夏から何故か蛍が現れるようになったからだ。
     しかも、何故か一匹だけ。
     それが彼女であるかどうかなんて、僕には解らない。けれど、水蜜桃の雫で濡らした指へつい、と寄って光を放つなんて蛍は、そうそういるもんじゃないだろう。
     だからその日だけは煙草を我慢して。
    「ほ、ほ、蛍来い……こっちの水は甘いぞ」
     夕焼けに向かって指を突き出して、僕は今日も嫌いな虫を呼ぶ。


    以上、完。