1.

     人込みは得意ではない。
     過敏な五感を持つ閃光にとって、絶えず何らかの刺激がざわざわと神経を逆撫でする都会は、決して心地よいものではなかった。目を焼くネオンとアスファルトの照り返し、クラクションと雑踏の喧騒、食べ物と香水の混ざったニオイーー息次ぐ間もなく注ぎ込まれるその情報量に、くらくらと眩暈がしそうだ。
     けれど、新しく物事を始めるならば都会の方が断然いい。
     木を隠すなら森の中、と言う先人の言葉は紛れもなく正しいもので、雑多な人いきれの中に身を潜めることは容易かった。余所者同志の群れは他人に無関心で、薄っぺらな言葉だけの情や紙切れ程度で成り立つ繋がりは、実に都合がいい。詮索されない、見えないフリをされる、属する場所など持たなくとも、ここでは生きて行けるのだと、肌で理解出来るのはありがたい。
     まして、全うな道を歩けない後ろ暗い人間にとってはなおさらだ。
     とは言え、馴染んだ巣を後にした閃光が新たな拠点に選んだのは、丸っきり知らない場所ではなかった。先代である誠十郎に連れられて、仕事の際に何度か宿代わりにしたことのある部屋の一つである。
     日本の首都トーキョーーーその中心部から少し離れてはいるがそこそこ活気はあり、人の出入りも多いためそれほど気にかけられることもない。郊外と言うほど奥まってはおらず、繁華街ほどごみごみした猥雑さはない、ホームタウンほど家庭的でもない、全てが適度に適当な。
     一通り暮らしに必要なものを一から揃えるのが面倒くさかったし、何よりそこそこのセキュリティ具合を自分で作り上げるのが手間だった。おまけにビルが丸ごと彼から受け継いだものだから、ある程度好き勝手にしても大丈夫なのがいい。
     地下にある駐車場にヤツフサを押し込んで、自分の部屋へ向かう。
    ーーそう言えば……こんなに丸腰みてえな一人になるのは久し振りだ……
     誠十郎に拾われてからこっち、マイペース勝手気儘に過ごしていたとは言え、家には絶えず養父かその右腕のクリフの姿があった。それより前ーーあちこち転々と厄介になることもあったが、大抵が独り宿なしで人目を忍んで生きて来た時以来だろう。
     心許ない、と言うのとは少し違うが、後ろ首辺りがそわそわと落ち着かない。やっと自分も一国一城の主と胡座をかけるようになるには、しばし時間がかかりそうだった。
     エレベーターもあるが、癖で階段を上った。五階建ての三階、一番奥。
     廊下を歩きがてら同じ並びの部屋のドアを眺める。無論、誰も住んではいない。ワンフロア全てが閃光の貸し切りにしてあるからだ。それなりに違う人間が入っているように見せかけてはいるが、よく注意してみればそうではないことが解るだろう。
     携帯端末に登録した電子キーでドアを開ける。
     長いこと停滞していた空気は些かカビ臭く、取り敢えず部屋中の窓と言う窓を開けて換気して回った。
     家具も小物も、以前訪れた時と何ら変わりはない。けれどヒトの鼻では解らないであろう、壁に染みついた自分のものではないアメリカンスピリットの匂いが、懐かしいような面映ゆいような加減で、鼻腔と心の奥底の柔い部分をくすぐる。
    ーーあれから……半年、か……
     誠十郎が亡くなってから『もう』と言うべきなのか、『まだ』と言うべきなのか、閃光には判別がつかなかったが、いろいろな物事に追われている内にそれだけの時間が過ぎ去って行ったのだ。
     あの屋敷に留まって、人知れず静かに穏やかに自給自足の生活を送ったとしても、誠十郎もクリフも咎めなかっただろうと思う。それも悪くない、と思わないでもなかったが、安定した足場を得て、根を下ろしてもよい場所を得て、初めて閃光は『生きる理由』を考えるようになった。
     何故まほろは、誠十郎は、クリフは、自分に生きてと願ったのか。
     それは生物として呼吸をして鼓動を打ち、食べて眠って死ぬまでの時間を消費していればいい、と言うだけではあるまい。それではヒトとして生きているとは言えない。野犬とーー彼らに出逢う前と同じだ。違う。そうではない。衣食住が満たされただけでは、きっと彼らの願いとは程遠いのだと本能的に理解した。
     他の誰もが当たり前のように手にしている『普通』のヒトとしての生活ーー本来なら得ていただろう『当たり前の幸せ』を、ここからどうやってスタートさせればよいのか。
     閃光はここ数年誠十郎にいろいろな教えを受けて、初めて学ぶ楽しみを覚えた。
     知らないことを知ることが、誰かとやり取りすることが、考えることが、挑戦することが、こんなに楽しいのだと初めて知った。
     まほろから外の世界を断片的に教えて貰っていた時とは違う、知識を己のものにしていいのだと言うーー思考と教育の自由を、ようやく諦めなくてもよくなったのだ。
     だからこそ、自分がヒトとして生きる理由が必要だ、と思った。
     ヒトは独りでは生きないものだ。誰かと何某かの理由で都合で繋がり、群れ、利用し、支え合って、あるいは寄生し、結ばれ、集まって生きている。
     けれど今までそんな経験がないせいか、大勢に混じって学校に通う己の姿はまるで想像出来なかった。
     ならば自分は、この世界に何を提供出来るだろう。
     ヒトから大きく外れたこの能力を、どう活かして行けるだろう。
    ーー多分……この答えは『正しくない』……
     平穏とは無縁の道になる。
     誠実とは反対の道になる。
     事実、クリフはあまりいい顔をしなかった。今や〈世界政府〉すらも徒労だと匙を投げた〈魔晶石〉の完全撲滅ーー誠十郎の後を人知れず継ぐこと。
    ーーだって、こんな力あったって……『普通』になんて生きられるはずねえじゃんか……
     遺伝子レベルで己に刻み込まれたこの〈獣化の呪い〉を解かない限り、いつかどこかで誰かに『普通』でないことはバレる。異常なまでの五感、身体能力、あるいはいつ暴走するのか解らない内なる〈獣〉に至るまで、枷をつけ抑圧し、その雁字搦めの縛りの中で、普通にまともに暮らそうと言うのは土台無理な話だ。
     だからまずは『異常が才能』に変えられる舞台に立たねばならない。言うまでもなく、それは決して日の光の当たらない世界だ。
    「…………」
     意を決したように短く息を吐くと、閃光はポケットから携帯端末を取り出した。


    →続く