「え?」
     ぼそりと唐突に投げられた問いかけがまさか自分に対してのものだとは思わず、一瞬反応が遅れた。閃光は苛立たしげに舌打ちをこぼしたものの、こちらの反応を待ってくれている。
     少年は慌てて口元を拭うと、真っ直ぐに彼を見遣って背筋を伸ばした。
    「フェイ……飛ぶって漢字を書いてフェイでさぁ」
    「フェイ、な」
     言いながら立ち上がって店を出て行く閃光の後を慌てて追いかける。本当なら見逃してくれる内に逃げる、と言うのが正しい選択だったのだろうが、フェイは構わずそして迷わなかった。
     どうやら閃光は、ただ単に煙草が吸いたくて堪らなかっただけらしい。早足で構内を出るなり、一本をくわえるとジッポーを鳴らして火をつける。心底美味そうに紫煙をくゆらせる姿に傍らを通った若い女性が嫌そうに眉をしかめたが、そんなものなどどこ吹く風だ。
     ゆっくりと吸いつけて吐き出すと、着いて来ていたこちらの姿を見遣ってから意外そうに僅かに眉を跳ね上げた。
    「お前、逃げねえのか? 今ならまだお前をトーキョー・ベイに沈めちまえば、何の問題もないんだぜ? のこのこ着いて来やがって……俺が安全なんて保障、どこにもねえだろうに」
    「逃げようたって……その気になれば旦那はオレが逃げてからだって、オレを殺せるでしょうに」
    「まあな。お前……一体何だって俺に弟子入りしたいなんて馬鹿なこと考えるようになった?」
     サングラス越しに投げられた視線は鋭い。
     それを受けたフェイは緊張のためにだろう、表情が一瞬にして随分強張ったように見えた。緩やかに吹く風にくわえた煙草の紫煙を逃がしていると、少年はややあって躊躇いがちに口を開いた。
    「オレ……産まれた時から親なしなんでさぁ。物心ついた頃にはもう孤児院にいてね。そこには昔からずっと大事にされて来た聖母像があった……誰も知らなかったけど、そいつは〈魔晶石〉で出来てたんでぃ」
     よくある話だ。
     〈文化改革〉時に全てを隠すように処分してしまって以降、若い世代がその見た目は愚か存在すら知らないまま〈魔晶石〉を所持している例は多い。
    何しろそうでなくとも日用品や消耗品に至るまで、全てが多かれ少なかれその影響を受けていたのが前時代である。片っ端からなかったことにしたつもりでいても、思いも寄らないところに残っていたと言った話が後を断たず、完全回収など出来ていない出来やしないものだ。建前を取り繕っても、裏ではそれを知る人間が恩恵を求めて奪い合っているのが事実である。
    「半年前のとある夜、その孤児院に強盗がやって来たんでさぁ。孤児院なんて盗るものないのにおかしいって思うでしょう? それでその時ようやく聖母像のことが解ったんでさぁ……もっとも半分以上は殺されちゃって、生き残ったのは泊まりじゃなかった先生数人と、片手で足りるくらいの子供だけなんですけどねぃ」
    「…………」
    「でもその数日後、ひょっこり聖母像が返って来たんでさぁ。狼の絵が描かれたカードと一緒に」
     一体誰がどうやって聖母像を取り返してくれたのか――シスターたちは調べる必要などないと口を揃えて諭してくれたものの、気になって仕方のなかったフェイはあらゆる情報網へ潜り込んでようやくその正体を知ったのだ。
     曰く、こんな真似が出来るのは裏社会が深く広しと言えどただ一人――怪盗バレットをおいて他にない、と。
    「旦那にとっては仕事の一つ、些細なことだから覚えてないかも知れないけど、オレには充分だったんでぃ。オレも旦那みたいに……誰かを助ける怪盗になりたい。誰かに勇気を与えられるような怪盗になりたい。そう……思ったんでさぁ」
     想いを吐露するその口調は決して誇らしげでも晴れやかでもない。
     フェイはきっと自分の口にしていることの矛盾を理解している。
     例えどんな理由をつけようと例えどんな口上を並べようと、閃光のやっていることは犯罪だ。誰かを傷つけ悲しませこそすれ、助けたり守ったりましてや勇気を与えたりするような正しいものではないと言うことを、充分に解っているのだ。
     それでも、確かに彼自身は聖母像の件で救われたような報われたような気分でいるのだろう。失われた大事な存在の命の代わりにはならずとも、その死が無意味で無駄なものにはならなかったから。
    「お前が何を勘違いしているかは知らねえが」
     しかし、閃光は溜息をつくように紫煙を吐き出して、ちらりとフェイを見遣った。
     その眼差しは更に温度を下げ、冷え冷えと凍てついた感情が滲んでいる。まるで少年のちっぽけな感傷など取るに足らない下らないものだと斬って捨てるかのような、一時の感情の揺れ動きで今後の生き方を選ぼうとする浅はかさを侮蔑しているかのような。
    「俺は例え相手がいい奴だろうが悪い奴だろうが、俺の目的のために〈魔晶石〉を盗んでいる。それ以上でもなければ以下でもねえ。俺は……正義の味方でも義賊でもねえ、ただの泥棒だ」
    「それは……そうかもしれないですけど、」
     一体誰に――何と言い訳したかったのだろう? 
     続く言葉を見つけられないままフェイが視線を伏せると、閃光は悪戯を思いついた悪童と言うにはいくらか悪辣な笑みを浮かべ、短くなった煙草を投げ捨てて火を踏み消しながら再び口を開いた。
    「じゃあ一つ、条件をやる」
    「じ、条件? 何の?」
    「俺に弟子入りしたいって話だ。この仕事、お前が代わりに行ってこなして来い。俺の手助けなしに上手く盗み出せたら、弟子入りさせてやってもいいぜ」
    「ほ、本当ですかぃ!?」
     ぱっと表情を輝かせるフェイへ釘を差すようにずずいと詰め寄ると、閃光は決して友好的でも甘くもない顔で少年を見据えながらその鼻先へ指を突きつけた。
    「けど、もう一度よく考えろ。テメーはこれから先の人生全てを溝に浸かって生きて行くのか、それとも真っ当な道を歩いて行くのか。是が非でもそうしなきゃならねえ切羽詰まった事情がねえ限り、引き返した方が幸せだと思うぜ」


    * * *


     そんなの無理だよ、と言ってしまうのは簡単だった。いろはも言っていたではないか。閃光が依頼を受けるのは『ヤバい筋か警備が厳しいところばかり』だと。
     プロの人間だって忌避するような仕事を究極ド素人の自分に投げて寄越したと言うことは、あんな拒絶するような言葉を投げて寄越したと言うことは、閃光には最初からフェイを弟子にするつもりなど小指の先程もさらさらないと言うことだ。例え話にならないほど無謀な申し出なのだとしても、歯牙にもかけられていないことが悔しい。
     何だって否定し拒絶することは、肯定し受け入れることより容易い。逃げ出すことは手を汚さずにいることは容易い。
    ――でもそれじゃあ駄目なんでぃ……
     閃光に自分を認めて貰うには、この課題をクリアするより他になかった。
     自室に戻り、フェイは有りっ丈の自作の道具の中から想定しうる事態に役立ちそうなものを片っ端からディパックの中に詰め込んだ。自分は噂に聞いた閃光のように身体能力が優れている訳ではない。何事にも退かない度胸がある訳でもなければ、ピンチを華麗に切り抜けるキレのある思考回路がある訳でもない。
     昔から褒められたのは指先の器用さと機械弄りの腕前だけだ。だからこそ足りないものがあるのなら、得意分野でどうにかカバーするしかない。
     まず怪盗として大切なのは獲物の情報を徹底的に頭の中に叩き込んでおくことだ、と閃光は言った。現場ではいちいち資料を確認している暇などない。その形状、重量、保管場所などなどを全て記憶し、偽物が設置されていたとしても騙されることなく本物を持ち帰る絶対的な嗅覚が求められる。
     今回の獲物であるオルゴールには特に銘がないらしい。と言うのも、これは持ち主である南条グループの次期総帥南条(なんじょう)綾香(あやか)が誕生日プレゼントとして義兄の晴貴(はるたか)から送られたものであるからだ。彼女の誕生石であるサファイアをメインにデザインを、と言うオーダーメイドの注文だったらしいが、一体そのどこで〈魔晶石〉が紛れ込んだのかは不明と言うことになっているようだ。
    ――ふむふむ、『現総帥は妻との間に子供に恵まれず養子として晴貴を迎え、後継者として英才教育を施した』……綾香さんが産まれたのはその数年後かぃ……
     綾香誕生と共に、後継者としての権利も莫大な財も受取人は彼女へと変更された。実子の方に譲りたいと思うのは人の親なら当たり前の感情なのかもしれないが、この事実で晴貴は南条グループ内での立場を失ったと言っても過言ではないだろう。
     兄妹仲は非常によく、晴貴は綾香を立てて来るべき日のために全力で支え、綾香も晴貴を慕い両親を亡くした今は何かと頼りにして睦まじく過ごしているのだと言う。
     この数か月ずっと体調を崩して伏せっているらしい綾香を、晴貴は甲斐甲斐しく看病しているとのことだが、果たしてそんな出来過ぎた兄妹愛がこの二人の間に育まれているものなのだろうか? 仮に綾香には晴貴を恨んだり憎んだりする理由がなかったとしても、己のそれまでの人生を真っ向から否定して全てを奪った妹を兄は許せるものなのだろうか?
    ――これって、もしかして……
     少女の原因不明の体調悪化は、義兄からプレゼントされたと言うこのオルゴールの〈魔晶石〉によるものではあるまいか。もし、万が一サファイアではなく〈魔晶石〉を取りつけるように、と言うのが『正しい』注文であったとしたら、このオルゴールに〈魔晶石〉がついているのが偶然でも事故でもなく故意だったとしたら、綾香はこのまま無事ですむものなのだろうか?
     彼女が死ねば得をするのは、恐らくその全てを取り戻すことの出来る晴貴だ。
     フェイは急いで封筒に収められていた書類や資料を漁ってもう一度依頼人の情報を探してみたが、残念ながら一体誰がどんな人物があのオルゴールを盗んでくれと言って来たのかは解らなかった。それは申し出の内容が内容だけに知らせて貰えないことになっているのだろうか? いろはへ訊けばとも考えたが、仲介屋である彼女が顧客の情報を明かしてくれるとも思えない。
     ただ、綾香がオルゴールを受け取った日と体調が悪くなり始めた日は合致する。
    ――最悪、オレの想像が当たってるとしたら……
     兄が目に見えぬ方法で邪魔な妹を排除しようとしているとしたら、先んじてそれに気付いた人物がこの話を依頼して来たのかもしれない。彼らに近しく尚且つ二人のどちらをも守ろうと、二人の関係を壊すまいと、どうにかその真似事が本当になればと願っている人物が。
     それを証明する物的根拠は何もない。ただのフェイの勘だ。けれど、何故か当たらずとも遠からずなのではないかと言う自信があった。己の第六感よりも閃光がこの仕事を引き受けた、と言う事実が少年にとっては何よりの証拠だったのだ。


    * * *


    →続く