ステアを握るのはいつも通りロキである。
    「閃光……本当に大丈夫ですか?」
    「問題ねえ。オペラ座へ回せ」
    「……解りました」
     どう説き伏せようとしたところで、一度決めたら閃光が頑として譲らないのはいつものことだ。こうしている間にも〈魔晶石〉の力が発動させられて、クロエの身に何かが起きていないとも限らない。彼には無関係な女を助ける義務など一ミリだってないのだが、身を滅ぼそうとしている人間を放っておけるような性分でもなかった。
     生まれついた時から獣の影を引きずり、その血に怯え憎み幾度となく絶望して来たからこそ彼は、自らの意志で堕ちようとする輩を力尽くでも止めたいと、人間の枠に踏み留まって欲しいと願わずにはいられないのだ。
     〈魔法術〉は決して代償なくその力を行使することは出来ない。
     流線美の黒い旧式車は滑るように街中を抜けて、パリス中心部に聳え立つオペラ座へ辿り着いた。  が、無論正面に停車して馬鹿のように乗り込んで行く訳には行かない。
     昨日の今日と言うこともあるだろう。周辺には警察官と複数のパトカーが屯して、物々しい空気を醸し出している。恐らく私服警官と覆面車を合わせれば、数はもっと多いに違いない。マスコミや野次馬を近付けぬためにだろう、正面出入口と裏口へ通じる道路は封鎖されていた。
     それらをやり過ごす形で通り過ぎ、さらに通り一本を挟んだところでロキは路肩に寄せて車を停止させた。その時にはもう閃光は閃光の姿をしていない。今日は急遽シフト交代だと連絡を入れた文保局員へと返送した怪盗は、慣れぬ白手袋を嵌めて外へ出た。
    「じゃあ行って来る」
    「本当に大丈夫ですか?」
    「心配要らねえ。大丈夫だ。奴ぁ自分の巣に触れた相手に容赦はしねえが、近付き過ぎなきゃ何もしねえ。蜘蛛と同じだ」
     ロキにはスワロウテイルとのやり取りをして貰わなければならない。彼との会話は集中力を乱す。
     例え最新式の警備システムを搭載していなかろうが、オペラ座はちょっとした仕掛けが作用して侵入者を確実に葬るための罠で溢れている。〈黄金期〉よりも遥か昔から幾多の無法者を屠って来たその古典的手法の方が、機械の耳目をごまかすよりも余程厄介だ。
    ――諦めろって言われてハイそうですかって引き下がるくれえなら、ハナからこんな馬鹿げた真似してねえよ……
     ロキから聞かされた怪人の言葉に内心で舌打ちをこぼしながら、閃光は劇団員や従業員が出入りする戸を開けた。
     その正面にはいきなり文保局員が立っている。
     癖の強いブロンドに薄めの灰色の双眸、頬のそばかす――フランス支部特務課のダミアン・モローだ。無論、侵入する前に支部全員の顔氏名は当たり前のこと、要らぬ恥ずかしいプライベートな秘密まで五十人分のデータが閃光の頭の中には入っている。人間関係の距離感も、閃光がその人物になりすますために必要な情報は、スワロウテイルがものの五分で集めてくれた。
     ドアを開ける前から気配で彼がそこにいることを閃光は知っていたが、一般的な感覚から言えばここは開いた扉で先輩をぶん殴りそうになったフリをして、いくらか慌てておくべきだろう。
    「おっと、すみません。お疲れさまです、ダミアン先輩。危ねー、当たりませんでした?」
    「平気。お疲れ。あれ、ヨルゴ……お前、今日警備シフト入ってたっけ?」
    「はい、中番で。先輩は今帰りですか?」
    「そう……事件の処理に追われてたらこんな時間だよ。緊急会議とかに呼ばれてさ……全く、やってられん」
     本当はもっと早くに上がる予定だったのか、大きな欠伸を噛み殺したダミアンは眠気を拭うように涙の滲んだ目元をごしごしとこすった。
    「ああ、まあ……まさか立て続けて人死にがあるとは思いませんもんね。あの歌姫美人だったのに、勿体なかったなあ」
    「馬鹿、お前あれは事故じゃないよ。照明吊ってたワイヤーに鋭利な刃物でつけられた傷があったらしい。殺人さ」
    「マジっすか。それってもうオレたちの管轄じゃないですよね」
    「そう。おかげで警官やら何やらもウロウロ出入りしてやがってさ……あの研修女の言葉じゃねえけど、どこからバレットが侵入して来たって解りゃしねえよ」
     溜息を吐きながら肩を竦める彼は、まさか自分が今話している目の前の後輩が件の怪盗が化けているとは夢にも思っていないのだろう。
    「でも、わざわざそんな中に危険を冒して来ますかね?」
    「さあな。ドロボーの考えることなんか俺が知るかよ。まあ、どの道盗られちゃっても俺たちに責任がある訳でもないし、テキトーでいいんじゃない?」
    「そうですね。じゃあ、オレはこれで」
     小さく会釈して、出て行くダミアンと擦れ違う。一歩行ったところでふと、彼が立ち止まりこちらを振り向く気配がした。
    「なあ、ヨルゴ……お前、煙草変えた?」
     探るような口調。怪訝と言うよりは不審そうな表情を浮かべている彼を見遣って、閃光はにこりと笑みを浮かべた。
    「変えたのは煙草じゃなくてオンナです。すいません、ちゃんとシャワー浴びて来たんですけど……そんな匂いますか?」
    「……うんにゃ。俺、鼻はいいからな。他の奴らは多分気付きもしないさ。けど、火遊びも大概にしとけよ」
    「覚えときます」
     ひらりと片手を上げた背中が扉の向こうに消えるのを確認してから、小さく溜息を吐く。
     万が一の時を考えて、変装する場合はなるべく喫煙者を選ぶようにはしているものの、閃光ほど四六時中煙草をくわえているヘビースモーカーになると、数時間ほど絶ったところで匂いが染み着いているらしい。だからと言って今さら禁煙など出来るはずもなく、ひょいと片眉を上げると閃光は目的である劇団員の控え室を目指して歩き出した。


    * * *


     この時間は普段、劇団員は夜の公演に向けて通し稽古を行っている。
     しかし昨日の今日ではさすがに公演自体が全面中止になってしまったため、支配人や事務局の人間はその返金や調整作業に追われててんてこ舞いで、鳴りっ放しの電話の対応に追われているようだった。
    その間を縫って警官たちが事情聴取や現場検証の許可を取りに来たりするものだから、生真面目そうなルノー支配人は可哀想なほど青白い顔になっていた。このまま行くと、数日後には疲労と心労で卒倒してしまいそうだ。
     劇団員たちは日課となっている基礎練習や体力強化のための運動をする気も起きないのだろう。大部屋に集まってそこここで固まり、ひそひそと声を潜めて事件についてのやり取りをしている。
     昨日はフレデリック配下のチンピラが築四百年を超える文化財である歴史的建造物へ傷をつけ破損させたとして数名逮捕されたものの、エルザの件についてもフィルマン支配人の件についても、捜査に何の進展も見られないことに彼らの不安と緊張は高まる一方だった。お陰で首飾りがなくなったことを言及するものなど誰一人いなかった。歌姫諸共粉々になってしまったとでも思っている――と言うよりは、やはりそんな些末に気を傾けていられる者がいない、と言った方が正しい。
     中でも一歩間違えれば自分も巻き込まれて犠牲になっていたかもしれない位置に立っていたクロエは、ショックが激しかったのか今日はオペラ座へ顔を出してもいなかった。
     が、それはあくまでも他の人間がクロエに抱いている幻想であって、真実ではない。彼女がここにいないのは別の理由からだ。無論それもあくまで閃光の憶測に過ぎない。が、クロエは仲間が死んだ『程度』で己の果たすべきことを疎かにするタイプではない気がした。人間として何かが欠けていようが、彼女はどこまでも歌姫であったと言っても過言ではないだろう。
     薄暗い照明の廊下を通って行くと、簡素な造りの扉がいくつも列を成す並びに出る。その中でも一番奥まった場所に支配人の執務室があり、会議室を一つ挟んだ広い部屋が今まで劇団の看板を背負う歌姫が使うことを許された控え室だった。まだしばらくは主のいないまま空っぽで時間を過ごすことになるのだろう。
     その隣がクロエに宛がわれた個室である。エルザの部屋と比べれば勿論見劣りしてしまうかもしれないが、入団したての新人や下っ端の役しか貰えない輩は数人纏めての大部屋であることを考えれば、個室を貰えるだけその実力を買われていると言うことだ。
     中の気配を探ると、やはりしんと静まり返っている。それだけを確認すると、閃光は躊躇なく扉を開けた。音もなく素早く室内に侵入する。カーテンこそ引かれているものの日当たりのいい部屋で、クロエの趣味なのか微かにアロマの爽やかな匂いが残っている。
    「さて、と……」
     見渡した室内の立派なテーブルにはつい先程まで誰かがいた痕跡のように、何枚もの紙が乱雑に散らばっていた。何かの台本かと思いきや、それは五線譜一面に音符のおたまじゃくしが踊る譜面である。が、見出し部分に『殉愛 Ver.5』と走り書きのあるそれは今まで目にしたことのない旋律を紡いでいた。エルザの代打として『ファウスト』に立つためのものではない。
     無論、閃光は職業柄芸術面の知識が豊富とは言え、その全てを網羅している訳ではない。が、画家と同じに、音楽家にも譜面を記す際の手癖と言うものがある。少なくとも手にしたそれは記憶にあるどの作曲家とも違っていたし、第一内容も見覚えがない。模写や盗用ではないとしたら、紙やインクの様子から鑑みても比較的最近の人間が書いたものだ。
     クロエではあるまい。
     彼女は歌うことに才能が突出しているものの、『新しいものを作り出す』と言う情念を持っているのとは違うように思う。新しい歌姫は表現者ではあったが、創造者足り得る能力は持ち合わせていなかった。ならばこの曲を書いたのは一体誰なのか。
     しばらく譜面にじっと視線を落としていたものの、閃光はやがて興味を失ったようにそれを元通りテーブルに置いた。本来の目的である『クリスティーヌの涙』を見つける前に、誰かがこの部屋へやって来ては面倒だからだ。
    ――一体どこに隠しているか……
     手始めに一番幅を取っている衣装ダンスから探索を始めることにする。
     慣れた様子で下の段から確認して行くが、閃光は決して空き巣のように中身をぶちまけたりはしない。最低限の動きだけでさくさくと作業を進める。
    ――造りつけのタンスに細工した形跡はない……大体しょっちゅう出し入れしようとするなら、そんなに奥まった面倒な場所には隠さねえはずだ……
     ドレスの波を縫い、宝飾品の山を探り、同じく造りつけの簡易な机の引き出しも漁ってみるが、中から出て来たのは彼女が貰ったファンレターらしきものばかりだ。
    ――やっぱ昨夜出る時に持って出られたか……
     誰がいつその存在を見咎めて糾弾しないとも限らない。ならば肌身放さず持っていると考える方が自然だろう。何かしら形跡があるかと思ったがそれらしき何かは発見出来ない。
    ――が、間違いねえ。エルザを殺したのは怪人だが、首飾りを盗ったのはクロエだ……
     疑問は確信に変わった、と言ってよかった。ここに来るまでは次の「花嫁候補」に渡すため首飾りも怪人が回収して行ったものだとばかりに思っていたが、彼はそんな大仰な〈魔法術〉が使える『訳ではない』。誰にも見られることなく『クリスティーヌの涙』を手にすることは不可能だったし、恐らくあれは彼が持っていたところで意味がない代物だ。
     とにかくここに留まっているのは時間の無駄である。早急に戻って彼女を探すべきだ。
     そう判断して、閃光は自分が入って来る前と室内が何一つ変わっていないことを確認すると、再び影のように控え室を後にした。


    * * *


    →続く