ダミアンと共にオペラ座へ戻って来たはいいものの、彼は早々に離脱した。曰く「時間外労働を悦び尊ぶのは、世界中で日本人だけです。下らない」とのことで、彼の上司でもなければそんなことを強制する権力も持たないミツキは、黙ってその猫背を見送るより他になかった。
     挙げ句、警察側からは捜査の邪魔はするなと釘を差されての探索活動に、あまり頑丈ではない堪忍袋の緒はきりきりと今にも引き千切れそうになっている。
    ――何なのよ、どいつもこいつも……いいわよ、私一人だってバレットを捕まえてやるんだから!! 見てなさいよ……
     めらめらと苛立ちともやる気ともつかない炎を胸の奥に燃やしながら、劇団員の控え室の並ぶ廊下を歩く。
     警察としては今回の件を事故として処理をしたいのか、舞台周辺は重点的に調べられていたものの、裏手に当たるこちらは殆んど手付かずだった。おかげで首飾りの行方など知らん顔、管轄外だと言いた気に放置されている。しかし、誰が『クリスティーヌの涙』を持っているにしろ、刑事たちの目があるところには置きたくない、と思うのが人間の心理と言うものである。
     ミツキの直感はこの辺りに首飾りがあると告げていた。
    ――えっと……やっぱり手前から順に調べて行くのが、セオリーと言うものかしら?
     名探偵よろしくふむと顎を摘まみながら考えていると、不意に一つの扉が開いて音もなく誰かが出て来るのを視界が捉えた。こちらに来てから何度か目にした文保局フランス支部警備課の制服を纏っている。
     が、こちらを振り向いたその平凡な顔に見覚えはない。
     いや、見たことはあるのかも知れないが、記憶にないしミツキにとっては余程の特徴でもない限り面と向かって紹介でもされていない以上、見慣れぬフランス人の顔など一人一人区別出来なかった。
     まさか誰か立っているとは思わなかったのだろう。彼は一瞬顔を強張らせたものの、どうにか表情を取り繕ってぺこりと小さく会釈をした。
    「お疲れさまです」
    「え、ええ……お疲れさまです」
     警備課の人間は支配人より依頼を受けてから数人ずつオペラ座に常駐している。だから彼が場内にいることは不自然でも何でもない。
     が、大部屋ならともかく、今この時間に個室から出て来ることは途轍もなく不自然ではなかろうか。何故ならその部屋の主であるクロエ・ヴォーティエは、今日オペラ座に顔を見せていない。
     傍らを通り過ぎようとする男の肩に手をかける。
    「ちょっと待って、貴方どこの部署?」
    「は、文保局フランス支部、警備課第二係所属のヨルゴ・レイモンと申します」
     カッと踵を鳴らして敬礼のポーズを取ってみせる警備係に、恐らく不自然な箇所はない。初めて訪れたオペラ座の裏側の造りは、ミツキも目を回しそうになったくらい複雑で一度地図を見たくらいでは覚えられないような仕様になっている。迷ってしまって、と言い訳されたら、それを疑う余地はないだろう。
     だからその確信めいた閃きは、勘だったと言っても過言ではない。彼の足取りは『迷っているようには見えなかった』。ただ、それだけだ。
    「そこで何をしていたの?」
    「怪しい人影が見えたような気がしたので、もし暴漢だったら大変だと思いまして、失礼を承知で入室させていただいたのですが……勘違いだったのか何も発見出来ませんでした。あの……決して疚しい理由からではありません!」
     姿勢を崩さずハキハキとした口調でそう言う彼は、真っ直ぐにこちらを見返して答える。が、ミツキは懐から銃を取り出して構え、彼に突きつけた。
    「嘘を吐いても駄目よ、バレット。貴方は『クリスティーヌの涙』を探しに侵入していた。でも今この部屋には首飾りがなかった……ただそれだけでしょ?」
    「…………あの、何を仰っているのか、よく意味が解りませんが」
    「惚けないで、気付かないとでも思ったの? 大人しく両手を上げなさい」
     果たして彼がどう出るか――それは一種の賭けではあった。違うと怒るか、逃げるか、それとも牙を剥かれるか。が、男が取った行動はそのどれでもなかった。しばらくミツキを興味深そうに眺めていると、不意に小さく肩を揺らして笑い始めたのだ。
    「すげー、ドンピシャ言い当てられるとちょっとばかりプライドが傷つくな。どうして解った? さっきもちょいと危なかったし……腕が落ちたかね」
     高いトーンの声からがらりと口調が変わる。
     ばりばりと変装用のマスクが引き剥がされた。その下から露わになったのは、見覚えのある漆黒の短髪、精悍な容貌、そして一度見たら忘れはしない鮮血のような真紅の双眸。紛れもない怪盗バレットこと天狼閃光である。
    「よお、お嬢ちゃん。また会ったな」
     銃口を向けられていると言うのに、閃光はこの前と同じように全く焦る様子もなく、不敵な笑みを浮かべて新しく煙草をくわえた。懐からジッポーを取り出して悠々と火をつけると一つ吸いつける。例え今丸腰の状態からでも、自分の方が早く撃てると言う自信があるからだろう。
    「こんなところで何してんだ? 左遷先にしちゃあ、随分洒落たところにトバされたな」
    「失礼ね!! 左遷なんてされてないわよ! たまたま研修でこっちの支部に来てただけで……」
    「そりゃ偶然だ。で? その玩具は撃てるようになったのかよ?」
     くっくっと意地悪く笑いながら閃光がそう問えば、そのころころ表情を変える眼差しが心外そうにこちらを鋭く射抜いた。
    「おかげさまでね。今日は安全装置なんてかかってないわよ。貴方の方こそこんなところで一体何をやってるの? 首飾りを探すならあっちのエルザ・スカーマインの部屋じゃないの?」
    「夜這い。可憐な新しい歌姫サマに一目惚れしちまってなあ……俺のものになってくれって請いに来たところさ」
     ガウン……っ!!
     てんで見当違いな方向へ弾丸がすっ飛んで行ったものの、ミツキは躊躇なく閃光に向かって引き金を引いた。
    「ふざけないで」
     その蒼い双眸には戸惑いの中にも苛立ちらしき熱が滲んでいる。それは恐らく前回からのやり取りを通しても初めて見る色だった。
    「ちゃんと答えなさいよ、ここに何しに来たの? エルザさんを殺したのは貴方なの? 自分の目的を果たすために邪魔な人間を始末したの? 答えてバレット!!」
     そんなことなど微塵も思っていないはずの問いが口からこぼれた。おかげで自分の本音をはっきり自覚してしまう。ミツキは彼に直接その口で、疑惑を百パーセント否定して欲しいのだ。
     サングラス超しでない裸の眼差しが、試すようにこちらを見遣る。
    「そうだ……と言ったら?」
     悪辣に笑ってみせれば、ぎゅうっと銃を握り締めるミツキの手に力が込められた。彼女は思った通り真っ直ぐな目で見つめ返して来る。
    「今すぐ貴方を逮捕するわ……前回の借りがあるからって見逃す訳には行かない」
    「やってみろよ。何ならハンデで手は使わないでおいてやろうか?」
    「馬鹿にしないで」
     ビリビリと緊張感が高まって行く。
     今にも弾けそうな空間の沈黙を破ったのは、溜息のように紫煙を吐き出した閃光だった。
    「くっだらねえ……冗談だ。俺があんなダセー不粋な盗みをする訳ねえだろうが」
    「…………本当?」
    「大体あの時俺が首飾りを手に入れてんなら、今ここにいる意味なんかマジで夜這い以外ねえだろうが。生憎俺ぁ薄幸の美女って奴は好きじゃねえ。どうせならもっとこう……」
     指先に煙草を挟んだまま軽口を叩こうとした閃光は、視線を上げた先でミツキがボロボロと大粒の涙をこぼしているのを目にしてぎょっと顔を強張らせた。
    「何で泣いてんだよ!? 俺ぁ何か悪いこと言ったか!?」
    「違……良かった」
     自分でも驚いたように慌てて涙を拭ってから、
    「だって、私を助けてくれた人が違う人を殺してたりしたら嫌じゃない」
    「…………」
     恥ずかしさを堪えるような――けれど満面の笑みを浮かべてそう言うミツキに、閃光は答えを返さなかった。話を戻すように咳払いをし、
    「とにかく俺の邪魔をするな。今日は結局何も盗ってねえんだから、お咎めなしってことでいいだろ? じゃあな」
     ひらひらと手を振って傍らを通り過ぎる背中を慌てて追いかける。ひしっとポケットに手を突っ込んでいる腕を掴んで引き止めようとしたものの、閃光は微塵も揺らぎはしなかった。それどころか、止まっているのは小鳥か何かででもあるかのように、そのままあっさりと引き摺られる。
    「ちょっ……待ってよバレット! もしかして首飾りはクロエさんが持ってるの!? どこにいるか知ってるの!?」
    「うるせえ、知っててもお前にゃ関係ねえし教えねえ。失せろ」
    「貴方が必要なのは〈魔晶石〉の中の〈魔法術〉だけでしょ!? 術式しか要らないなら、外側は私に渡してくれてもいいじゃない!!」
     噛みつくように告げると、閃光は不意にぴたりと足を止めた。
     そう、彼が〈魔晶石〉を盗むのは何かしらの――恐らくはバレット自身の呪いを解くための〈魔法術〉を探しているからだ。無論、世界へ過干渉することになる〈魔法術〉を否として、その完全なる終焉のために暗躍しているのも嘘ではないのだろうが、あくまでそれは建前だとミツキの直感は告げている。
     だからもしこの提案を閃光が飲んでくれたなら、彼は手を汚さなくてもよくなるのではなかろうか?
    「…………あのな」
     懐からいつものサングラスを取り出してかけた閃光は、じろりと色の濃いレンズ越しに鋭い視線を投げて来た。そこに込められているのは苛立ちだ。
    「この際だからハッキリさせとくが、俺たちは仲間でもチームでもねえ。この前言ったはずだな? 今度会う時は多分敵だ、ってよ。本来俺とお前は慣れ合うような関係じゃねえ、違うか?」
    「そ、それは……っ! そう……だけど……」
    「馴れ馴れしく近付いて来るんじゃねえ。俺を使いたいなら出すものを出せ。仲良しごっこがしたいなら他を当たれ。それとも〈力〉が暴走した時、真っ先に八つ裂きにされたいかよ? 解ったらついて来るな」
     乱暴にではなかったが手が振り解かれる。総毛立てて威嚇する獣が牙を剥くように完全なる拒絶の言葉が投げつけられた。それは――もしかしたら、過ちを悔い改めてくれるかもしれないと言う淡い希望を簡単に打ち砕く。
     ミツキが俯いてそれ以上引き留める言葉を紡がないのを確認すると、閃光は小さく鼻を鳴らして踵を返した。


    →続く