怒鳴られた訳ではないのに、衝撃はそれ以上だった。甘い考えを持つなと撥ねつけられた気分だった。彼が生きて来た裏の社会は、そうした妥協など許されない微塵も隙を見せられない世界だったのだろう。何も知らないお子様が、と言われてしまえば確かにその通りなのかもしれない。けれど、
    ――本当は自分だって、そんな真似したい訳じゃないくせに……
     ぎゅっと拳を握り締める。
     こうなったら自力でクロエを探し出すしか方法はない。居場所の検討がついているらしい閃光を出し抜いて、と言うのは随分と高いハードルではあったが、それを超えねば彼を止めることは出来ない。
    「見てなさいよ」
     何を持ってして閃光が首飾りの在処を見当づけたのかは解らないが、恐らくクロエの部屋で何かを見つけたのだろう。主のいない部屋に無断で入ると言うのは、ミツキに取って途轍もない罪悪感を引き起こすものではあったが、この際四の五の言っている場合ではない。ごめんなさい! と呟いた言葉を免罪符にして扉を開ける。
     日当たりのいい室内は特別広くはないが、趣味のよい家具やアンティークで纏められていた。エルザの部屋にも足を踏み入れたミツキからすれば、華美で派手なあちらとは百八十度違う趣で、どちらかと言えばこっちの方が好感を持てる。
     だが、素人目で見たところで、何かおかしなところがあるようには思えない。
    「落ち着くのよ私……焦っちゃ駄目。仮にも私は文保局員――素人じゃないわ、プロよプロ。家宅捜査の研修は何度もやったんだから、じっくり見たら解るはず……多分!」
     視線を低めに腰を屈めて探索して行く。端から見ればそれは限りなく不審な行為である自覚はあったが、ありもしない他人からの目を気にしている場合ではない。
     バレットはその仕事の早さから『弾丸』の字がついたと言われている。現場滞在時間は長くて五分。彼はそれで目星をつけた。最も効率的に探すなら、形状や大きさを考慮した場所――そしてクロエが取り出しやすい場所に隠してあるはずだ。
    ――一番怪しいのは鏡台かしら……?
     〈魔晶石〉であってもあれはアクセサリーだ。女性ならきっとその美しさに酔いしれたり、合わせるドレスやメイクを見たりするために鏡の周辺にしまう気がした。
     妙な姿勢のままそろそろと鏡台へ近付いていたミツキは、毛足の長い絨毯に足を取られて躓いた。
    「っきゃ…………っ、あ!?」
     大きな悲鳴を上げて無様に転がることは避けたものの、前回の教訓を活かしてローヒールパンプスを履いていた意味はあまりなかったらしい。
     瞬間、
     ガコン……っ、
     重々しい音を立てて、鏡台を照らすランプが――転ぶまいとしてミツキが咄嗟に掴んだ装飾ランプが身動ぎした。
     一瞬こんなお高級そうな家具を壊してしまったのか、と全身の血が足下に降下した感覚を覚えたがそうではない。あたかもそれは異界への扉を開く鍵であったかのように、古いカラクリを動かす捻子であったかのように、予め誰かがそう言う風に作りつけていたのだ。
     そしてそれに呼応するように壁の向こうからきりきりと歯車の軋む音がして、鏡台が横にスライドして行く。やがてその奥から姿を現したのは、大人一人がどうにか通れるほどの狭い隠し通路だった。
    「嘘ぉ…………」
     予想だにしていなかった展開にもはや笑うしかない。黒々とした底知れない闇が続く穴は、今にも何かが飛び出しそうな不気味な雰囲気を醸し出していたが、躊躇は一瞬だった。今頃自宅に戻って、惰眠を貪っているのだろうダミアンを呼んで来る暇はない。
     手にしたままの拳銃を握り締めると、ミツキはひらりと闇の中に身を躍らせた。


    * * *


    「ったく……参ったぜ畜生」
     眉間に寄せた皺を三割増で、変装も解いた閃光が乱暴な仕草で助手席に乗り込む。侵入先の宛てが外れて空振りに終わることはそこまで珍しくないことだが、それで彼が機嫌を損ねているのは珍しいことだった。特に今回は確認の意味が十中八九を占めていたのだから、クロエの部屋に獲物がないだろうことは閃光も承知していたはずだ。
     が、他に原因があるとしても、再度怪人と対決したと言う訳でもなさそうである。
    「どうかしたんですか? 閃光」
    「どうしたもこうしたもねえよ。この前の文保局のお嬢ちゃんがいただろう? 今こっちで研修中なんだとよ。鉢合わせちまった」
    「え……ミツキさんが?」
     思わず複雑な気持ちが沸いて、ロキはどう言う顔をすればいいのか咄嗟に判断しかねた。
     彼女は贔屓目なしで見ても真っ直ぐで明るくて、いい子だと思う。一生懸命なところも正しくあろうとする姿勢も、近付く訳には行かずとも好ましいとロキは感じていた。が、それがイコール閃光に取っていい結果を齎すかと言うとそうではない。
     閃光がミツキにそう悪い感情を持っていないのは、相対してすぐに撃たなかったと言うだけで充分解ることだが、こちらがそれほど警戒していないことを彼女に違う意味で捉えられてしまうと厄介だ。ミツキはこちら側の人間ではない。いざと言う時、閃光は彼女を見捨てたりはしないだろう。切り捨てたりはしないだろう。
     それが致命的な弱点にならないとも限らない。
     恐らくは閃光自身、彼女が自分の正体を知っても恐れずに近付いて来ることを嫌だと思わない自覚があるから、こうして悪態をついているのだろう。他人と深く関わることを得手としない彼は、フェイを迎えた時もライラを守った時もロキ自身を救った時も、そうしたいと思う自分の感情を持て余し気味だった。
    『…………解ってんだよ、本当は。俺はこんなにたくさんのものを望むべきじゃない。守りたいものを持つべきじゃない。またいつこの手で壊しちまうとも解らないものを、想うべきじゃねえんだ』
     脳裏に蘇る、出逢ったばかりの頃の閃光の横顔。まだ少年の面影を色濃く残しているくせにその紅い双眸だけは、この世の全てを見て来てしまったように荒んでいた。だからこそロキは全身全霊存在の持てる全てでもって彼を支えようと誓ったのではないか。
    「とにかく」
     短くなった煙草を灰皿に押し込みながら紫煙を吐き出す閃光の声に、はっと思考を引き戻される。
    「奴の巣の中に入らねえことには『クリスティーヌの涙』は手に入らねえ。スワロウテイルから地下のデータは貰えたか?」
    「はい。衛星からリアルタイムで透過させたデータなので、さすがの彼も少し手間取ったみたいですが……」
     起動させた端末のデータを開くと、ロキはその上に昨日自分たちが通ったルートを赤いラインで引いて行く。さらにオペラ座の詳細地図を重ね合わせ、ホログラムを展開させた。
    「恐らく礼拝堂の方から入った方が罠が少ないと思います。少し遠回りにはなりますが、最終的な時間は変わらないはずです」
    「だろうな。直近の入口が罠ってのはよくある手だし、さすがに俺もあれは二度も喰らいたくねえ」
    「それでも、怪人とかち合った時はどうしますか?」
     どんな生物にも鍛えようのない部分と言うものは確実に存在する。聴覚を絶対支配する鼓膜もその一つだ。音が聞こえなければ問題ない訳ではなく、音波は確実な圧力となって物理的に影響を及ぼして来る。
     が、閃光はにやりと悪辣な笑みを浮かべただけだった。
    「ロキ、音と光はどっちが速いか知ってるか?」
    「…………はい、知ってます」
    「じゃあ、そう言うことだ」
     挑むような眼差し。
     そこには己の〈力〉に怯え震えているだけの少年はいない。抗いもがき這い蹲ってでも、己の手で己の運命を掴もうとする強く気高い意思を、今の閃光は持っている。残酷な現実からそれを盗み出してこその怪盗だろう、と闘う気概に満ちた眼差しは言っている。
    「はい」
     サイドブレーキを下ろしてカコン、とギアを入れると同時、アクセルを踏み込む。ぶるりと身体を振るわせたヤツフサは、さながら狩りに出かける獣が腰を上げるようにしなやかに駆け出した。


    →続く