海岸線を抜けて山道を上って行くと、やがて思ったよりも立派な白亜の門が見えた。その手前で停めた車から下りると、街全体が一望出来る景色が広がっている。
    「へえ……随分いい場所だな。オペラ座の地下を徘徊してた化け物が眠るには、ちょっと明る過ぎるんじゃねえの?」
     煙草をくわえて火をつけながら、閃光はそう門を見遣る。その視線の先にはこれまた立派な造りの看板がかかっていて、そこには『パリス市共同墓地』と言う見た目を裏切る簡素な名前が刻まれていた。
     所謂、身元不明の死者や引き取り手のなかった遺体が埋葬される場所だ。
     オペラ座の怪人として名を馳せたジャックも、戸籍を持たず関係者もいない天涯孤独な身の上であったため、当然のことながらこの中に眠っている。
     いや、正確に言うならば、結果的に全焼したオペラ座跡から発見された遺体が、ジャックであるかどうかは定かではない。ただあれだけの事件であったにも関わらず、死者はただ一人しかいなかったから、彼をジャックであると判断するのが自然であると言うだけの話だ。クロエはと言えば、未だ精神を壊されたまま病院にいる。回復は絶望的であるらしい。
    「だからこそ、じゃないですかね……今までずっと暗い地下でしか生きて来られなかったから、最期に眠る場所くらいは、陽当たりのいいところがいいんじゃないかって」
    「だとしたら余計な世話ってもんだろ。今まで散々、化け物だなんだって追い立ててやがったくせに……まあ、お前に文句言うのは筋違いだけどな」
     本当は――逃げ延びてどこかで静かに暮らしていてくれればいい、と思っていることなど微塵も伺わせないまま、閃光は歩き出した。
     扉を押し開けて敷地内に足を踏み入れると、少し先に礼拝堂が佇んでいる。個別の墓石はないため、遺骨のある者はこうして纏めて管理されているのだろう。元々訪れる人間など皆無に等しいのか、他の誰かの気配はない。
     開けっ放しの入口から中を覗くと、薄暗い堂内はひんやりとした独特の空気に満ちていた。やはりこう言うものは、どこの国でも同じような雰囲気であるらしい。正面には十字架にかけられた聖人の像と、フランス国民が信奉する神のステンドグラスが掲げられており、彼らに見守られるようにして大理石のオブジェがぽつんと据えられている。
    「『全ての魂は神の御名の下に平等である』、ね……おっ死んだら生きてた間の物事は全部チャラだって書けばいいのによ」
     誰かが聞けば眉を顰めそうなことを吐き捨てて紫煙を吹かすと、閃光はジャケットの内ポケットから〈術式〉の分解が終わった首飾りを取り出した。バラバラに砕け散ったその修繕を行ったのは無論、文保局の専門チーム――ではなく閃光自身だ。
    「返すぜ、ジャック。俺にゃもう用のねえ代物だ。あの世で飛び切りいい女見つけな」
     答えを返す術のないオブジェに代わり、差し込む夕陽を弾いた〈魔晶石〉が一瞬きらりと輝いてみせた。それはまるで死してようやく、心穏やかに静かに眠れると言わんばかりにジャックが別れを告げて踵を返したように思えて、ロキはそっと閃光の傍らに歩み寄った。
     はっきり口にすることなどこれからも決してないだろうが、迫害され己の居場所を闇の中にしか見出せず怪人となった彼のことを、閃光は少なからず自分と重ねた部分があっただろう。が、一つ吸いつけて紫煙を吐き出しながら、長くなった灰を床に散らせた主人がこぼした言葉はまるで違うことだった。
    「五十年だ」
    「え?」
    「以前にもあのオペラ座で歌姫が連続して怪死した事件があった、ってのは言ったな? それは〈大戦〉よりも遥かに昔――『黄金期』只中のことだ。スワロウテイルにそれこそフランス国内の名簿全部引っくり返す勢いで調べさせたら、ジャックはああ見えてまだ三十ちょいだった。つまり前の事件は、当時生まれてもいねえ奴が起こしたものじゃない」
    「…………どう言う、意味ですか?」
     閃光の眼差しは真っ直ぐに掌中の首飾りを見据えている。
    「昔の件は戦後のごたごたや〈文化改革〉のせいでごっそり詳細資料が処分されてるらしい。だから一体何人どう言う風に死んだのか、どう言う状況でどんな事件が起きたのかってのは、オカルトじみた都市伝説みたいな噂しか残っちゃいないんだが、もし別人が犯人だったとしたら、かつて怪人がもう一人いたとしたら、一つ問題がある」
    「そいつが野放しになってるってことですか?」
    「そんなもんとっくに時効だ、そうじゃねえ。この五十年、オペラ座には『クリスティーヌの涙』は存在していなかった。それどころか裏の世界でも、そんな〈魔晶石〉があることなんて知られていなかった。だとしたら、短くはないその空白期間、『こいつは一体どこにあって、一体誰が所有していたのか』? そして『最初の所有者はどう言う経緯で首飾りを手に入れたのか』」
     勿論、現時点でも全ての〈魔晶石〉の存在が明らかになっている訳ではない。
     そもそもきちんとしたリストがある訳でもないから、〈大戦〉と〈文化改革〉のせいでどれが処分され破壊され、失われてしまったのかもあやふやだ。が、五十年前に確かに存在していたものが度重なる危機を乗り越えて現存しているならば、新たに作り直す手段がない以上同一の作品であると言うのは間違いないだろう。
     つまり五十年もの間、『クリスティーヌの涙』は人目に触れぬよう厳重に管理されていたことになる。一切合財欠片も残さず〈魔晶石〉が狩られた歴史すら掻い潜って、この首飾りを手元に置いていた人物がいるのだ。
     それが〈魔晶石〉を作った本人か、渡された側かは解らないが。
    「今回の件が起きたのは、その誰かがジャックに『クリスティーヌの涙』を渡したから――としか、考えられねえ」
     彼の孤独につけ込む悪魔のように。
     優しさを装って、人の心の隙を指先で突くような不粋な真似をした輩がいる。
    「誰かって……一体誰が? 何のためにですか?」
    「さあな……今はまだ、そんなことが本当にあったのかどうかすら解らねえ、俺の独りよがりなただの憶測でしかねえよ。だが……」
     溜息混じりの紫煙を吐き出して、閃光はその消失して行く先へ視線を向ける。
    「だがそいつはもしかしたら、やり直そうとしてるのかもしれねえ」
    「〈魔法術〉があった世界を、ですか?」
     ロキの眼差しが戸惑ったように揺れる。本来なら〈魔導人形〉である彼の双眸が感情を滲ませて変化するなどと言うことはあるはずがないのに。
     それに気付かないフリをして、閃光は手にしていた首飾りを無名墓地の墓石の上へそっと置いた。蒼い石は何も知らないと無邪気を装って、こちらへ微笑みかけているようにすら見える。物に――意志のない物体に、何かを成そうとする思考などあるはずがない。そこに某かの概念や付加をつけるのは、いつだって人間の方なのだ。
    「或いは、自分の思い通りに動く世界――とかな」
    「そんな……神様じゃあるまいし」
    「神なんていやしねえよ。だがそんな下らねえものになろうと、本気で試みた奴がいただろう?」
     ざあ、っと不意に強く吹いた風に、外の樹々が怯えたように枝を揺らしてざわめく。しかし、閃光は躊躇せずに今や口にすることすら禁忌とされるその名を声に乗せた。
    「ルナ・クロウリー……かつて『魔女』と呼ばれたあのクソ女なら、いかにもやりそうじゃねえか」
    「でも……でも、彼女は死んだんでしょう? 〈大戦〉の罪を一身に背負わされて、〈魔晶石〉を生み出した責任を取らされて、処刑されたんでしょう? もう、二十年も前に」
     そう、〈魔女〉は死んだ。
     何の抵抗もせず言い訳もこぼさず、完璧なまでに美しい笑みを浮かべて「縁があったらまた来世で会うとしよう」と言う不敵な言葉を残して首を刎ねられた。
     小細工するような隙などなかっただろうし、まさか二十年の時を経て生き返るような〈魔法術〉を施していた訳でもあるまい。何より生き返ろうにも、遺体は当の昔に焼却されて骨すら残さず処分されたはずだ。
    そして、彼女に血縁はなかった。
    「別に本人じゃなくたっていい。例えばどっかの白いケダモノみてえに、自称その遺志を継ぐ者のやったことかもしれねえ」
     未だに彼女の思想に深く共感し、賛同して何とか〈魔法術〉を復活させようと画策する輩はごまんといる。
     そうでなくとも一度その『恩恵』を知った者は、進んでそれを手放そうとはしない。誰しも豊かで便利で苦労のない生活を送りたいと願うものだ。例え〈魔晶石〉が無償でその『力』を提供してくれている訳ではないことを理解していてもなお、自分の持たない何かを欲してしまう人の弱さを欲望の深さを、責めることは出来ない。
    「上等だよ」
     フィルターぎりぎりまで消費した煙草をぷっと吹き捨てて靴底で火を踏み消すと、細く長く紫煙を吐いて閃光はいつもの不敵な笑みを浮かべた。
    「誰が来たって関係ねえ……俺は俺の目的のために〈魔晶石〉を追う。そいつともその内どっかで鉢合わせることになるかもな。下らねえ夢を持ってるってんなら、容赦なく叩っ壊すまでだ」
    「…………はい」
    「帰るぞ、ロキ」
    「はい」
     今さら後になど引けない。己の身が呪われていることを知ったあの日から、当の昔に閃光の歩むべき道は見えない手によって決められてしまった。それを拒絶して逃げなかった瞬間から――己がその道を選び取った瞬間から生き方は決まってしまった。
    ――俺は……お前とは違う。お前が、俺とは違うように、な……
     オブジェを振り返ることはしない。
     軋んだ音を立てて閉じた扉の向こうで、首飾りは二度と光りはしなかった。



    以上、完。