「解りました、すぐ向かいます」
     ロキは間もなく姿を現した。余程急いで来たのか、呼吸こそ弾ませたりはしていないものの、彼にしては珍しく柔らかな金髪が風に乱されるがままになっている。
    「すみません、お待たせしました」
    「いや。尾行(つ)けられてねえな? こっちだ」
     促して、閃光は先達て入口から地下道へ降りた。無論戸を締め、薄い底板を戻すのも忘れない。背の高いロキは幾分降り難そうにしていたが、どうにか二人は揃って石畳を下って行く。
     苔も生え年季の入った様子の狭い階段は、礼拝堂と同時期に作られたものだろう。かなり古い。作り自体はしっかりしているため崩落の危険はなさそうだが、行き先を知らねばやはり自分の意志で飛び込むにしても相当の勇気が必要だ。普通なら飲み込まれそうな恐怖を堪えながらの歩みとなるだろう。
     それほど深さはなく、一度僅かな踊り場で折れて間もなく、靴底は整えられたコンクリート舗装の通路を踏み締めた。こちらはまだ新しい。
    「これは……」
     一応ライトは持っているが、何が潜んでいるか解らない以上こちらの位置を特定させる照明を灯すのは得策とは言えなかった。サングラスを外すと常から暗い視界に慣れている目は、それほど苦労せずに周囲の光景をぼんやりと浮かび上がらせる。あとは鼻と耳とが勝手に不足分を補って、行動するのに不自由ではないように感覚を調整してくれた。
     外で双眸を晒すことにかなりの抵抗があったが、何かと鉢合わせる寸前にサングラスをかけ直せばどうにかなるだろう。
     元よりロキは暗かろうが何だろうが関係ない身体だ。
    「……にしても、何だこりゃあ? 逃走用ルートとして使われてたのはかなり前だろうな。明らかに別の目的で後から誰かが手を加えてる」
    「そうですね……こう言うのって本当に掘っただけって感じの歪な道が多いですが、これは明らかに長期的に使えるように整備されてる」
    「スワロウテイルに調べさせりゃ確実だが、多分この礼拝堂が『形式上』潰れたのも五十年くらい前だろ。オペラ座を完成させた奴が、元々あった逃げ道を利用して秘密の地下通路を造り、ここを隠れた出入口として確保した……ってとこか」
    「何のために……ですか?」
    「さあな……忍ばにゃならねえ身の上か、他人様の目に触れずに外出したい誰かの仕業が……どっちにしろ、ロクなもんじゃねえだろうな」
     濁った汚泥を含む水が傍らを流れているせいで臭いは酷かったが、整備されて広い歩道が確保された通路は、想像していたよりもずっとマシだった。とは言え、空気の通りは悪いのか湿り気を帯びた重たいそれは、まるで性質の悪い呪いのように全ての感覚に絡みついて来る。長時間いられる空間ではない。
     途中上り口はいくつもあったし、岐路や角もまるで迷路のように入り組んで複雑に出現したが、閃光はその度に刻まれたマークを確認して道を決めた。
     一体どのくらい歩いただろうか。全く同じ壁と通路のみが続く四方と暗がりのせいで、時間感覚も方向感覚もおかしくなっていたが、二人はようやく目的の上り口を探し当てた。礼拝堂のマークを確認し、階段を上る。
     突き当たりの扉は古めかしい木製で、向こう側の気配を伺ってから閃光はゆっくりとそれを押し開けた。途端に視界を頭上から垂れ下がった分厚い布に覆われて、一瞬ぎょっと息を飲んだ。よく見れば、それはオペラ座にあるのと同じ目隠し用の幕だ。
    「ここは……」
    「やっぱ思った通りオペラ座の地下だな」
     その波をかき分けて進むと、そこは狭苦しい通路の一角だった。頭に入っている図面と照らし合わせるに、ここは地下階――この一角は普段壁の一部として上手く隠されているようだが、幕の向こうの膨大な空間が、例のフィルマン支配人が死んでいたと言われる奈落の場所である。
    「クロエさんはわざわざオペラ座へ戻って来たってことですか?」
    「人目を忍ぶ理由があったのは確からしいが、こっちにゃクロエの足跡がねえ。オペラ座側からクロエに会うために来た誰かと、中で待ち合わせていたってとこだな……こっちにあるのは男物の靴痕だ。二人が向かった先は別……撒かれちまったな」
     言われた通り視線でサーチをかけたロキは、その何者かの体格は歩幅とあの狭い出入口を考えるとぎりぎりのサイズだった自分と同等くらいか、と推測を立てる。
     未知の空間を闇雲に探索する危険を避けたためとは言え、まんまと出し抜かれた形になった身としては悔しさが勝った。見過ごして来た出口のどこがどの建物に繋がっているにしろ、せっかくスワロウテイルが提供してくれたネタが無駄になったのだ。
    「もしかして……こんな時にその、恋人とか……ですかね?」
    「それよりもっと相応しい相手がいるじゃねえか」
    「まさか……」
    「そう、怪人だよ」
     蝶々はオペラ座から自宅と別方向に向かったのはクロエ一人だと言っていた。けれど確実に、オペラ座からこの地下通路を通って外に出た人物がいるのだ。事情聴取を受けたリストに名がある人物でないとするのなら、『今夜ここにいないはずにも関わらず、事情聴取後もオペラ座内に留まっていた者』であると考えねばならない。
     該当者は怪人ただ一人だ。
     エルザと同等の歌唱力を持つクロエを、オペラ座の怪人が見逃すとは思えない。歌姫亡き後劇団の看板に推されるのも、間違いなく彼女だろう。怪人からコンタクトを受けたクロエはそれに応じたと言う訳だ。もしくはその逆か。
    「彼女、あんまりそんなガツガツしたタイプには見えませんでしたけどね」
    「出さねえからって貪欲さがないのとは違う。無欲に見える連中だって、チャンスが目の前に転がってくれば、誰だって自分でも無自覚だった欲望が露わになったりするもんだ」
     とは言え、サングラスをかけ直してクロエと怪人らしき影はないものかと深紅の天鵞絨を僅かに捲った閃光は、そこに広がっていた光景に思わず呆気に取られた声を上げた。
    「……マジかよ」
     視線の先――奈落の底に横たわっていたのは、誰であろうフレデリック・ブリュネ子爵その人であった。
     まるで猛獣か何かに襲われたようにばっくりと額が割れ、高級そうなスーツを引き裂いて鉤爪のような傷痕がいくつも刻まれている。閃光を追いかけ探し回っている内にこんなところにまで迷い込んでしまったのだろうか?
     その惨たらしい死に様と言い遺体が転がっている位置と言い、まるでフィルマン支配人の死を寸分違わず再現してみせたようで、悪趣味のえげつなさに閃光は眉を顰めた。
    「これって……〈魔法術〉の傷でしょうか?」
    「解らねえ……だが、見た限りじゃあ〈魔法術〉が発動した痕跡はなさそうだ。そうだな、支配人とマフィア貴族――共通点のない二人が同じ位置同じ傷で死ぬ条件があったとすれば、もっと確実で現実的な方法がある。例えば……」
     閃光は唐突に死体の傍らに近付くと壁へ手を這わせた。奈落が下りた状態でなければ見ることの出来ない場所だ。黒革の手袋に包まれた指先が、板のほんの僅かな窪みを探り当て躊躇なくそれを横にスライドさせる。
     瞬間――
     ひゅんっと鋭く空気を切り裂いて頭上から襲いかかったのは、まるで三日月のように湾曲した珍しい形状の刃の群れだった。予め知っていなければ躱せるはずのないそれをあっさりと撃ち落とし、轟音と共に床に突き立つ様を見遣ってから、閃光はゆっくりと紫煙を吐き出した。
    「見つけてはいけないものを見つけたがために、罠の毒牙にかかった――とかな」
    「………………」
    「ほら、地獄の入口のお出ましだ」
     見れば、スライドした壁板の向こうにはさらに地下へ潜るための階段が姿を表していた。先程通って来た地下通路とはまた別のその空間は、ライラが図面を見ておかしいと言っていた『あるはずのない壁の中の階段』である。
    「もしかしてこれって……」
    「怪人のアジト行きだろうな、間違いなく。あの地下通路には直結したルートがあるはずだ。地下に張り巡らされた道は全部、モグラの巣みたいに繋がってんだよ。奴がこのパリスのどこにでも出向けるように」
    「じゃあ、オペラ座の改装はそれをカムフラージュするために?」
    「どうだろうな……どっちにしたって化け物同士が対峙するにゃ、穴窖たぁお誂え向きの場所じゃねえか」
     が、その中へ足を踏み入れることは出来なかった。
     物言わぬ鉄屑と化していたはずの先程の凶器が不意に爆発し、牙を向いて襲いかかって来たからだ。小さな欠片ではあったが、無数の刃となったそれらは充分な殺傷能力を持っている。反応したのは閃光の方が早かったが、一つ一つ撃ち落としていては間に合わない。
    「強制停止、推進力を無効!」
     右手を掲げたロキが〈魔法術〉を展開する。破片はしばらく抵抗するようにぶるぶると身動ぎしていたものの、力尽きたようにぱらぱらと床の上に落ちた。珍しく警戒に満ちた鋭い視線をその向こうに投げて、ロキは誰何の声を上げる。
    「どなたですか? 出て来て下さい。背後からなんて随分不躾な挨拶じゃないですか」
    「〈魔法術〉の遣い手がまだ生きていたとは驚きだな……これは想定外だ。だが、他人の家に許可なく土足で入り込もうとするのは不躾じゃないのかね? 怪盗バレット」
     それは一体どこから出しているのだろうと思うような、遠くから近くから響く不思議な色をした声だった。
     ゆったりと落ち着いた調子で、反対側の通路の陰から一人の男が姿を現す。
     夜の闇を染め抜いたような漆黒のマントを纏い、まるで舞踏会の時素顔を晒さぬために被る類のような真っ白の仮面で顔の上半分を覆った彼は、底知れぬ空気を漂わせていた。その外套一枚を捲れば、中は闇しかないのではなかろうかと思えるような、得体の知れなさが酷く不安を煽る。もしこの世の死や不幸を体現するとしたら、きっとこの男のような形を取るに相違ないと思えた。
     が、閃光は変わらずくわえ煙草の紫煙をふかし、たった今その命を狙われたことなど性質の悪い冗談だとでも言うように無造作に問うた。
    「よお、テメーが噂の『オペラ座の怪人』か?」
    「いかにも……他人は私のことを『オペラ座の怪人』などと呼んだりするな。実に愚かしいセンスだ……そうは思わないか?」
    「さてな……他人のセンスなんざどうでもいいが、目的を果たすためにいちいち許可取るなんてまどろっこしい真似は、出来るだけ省きたいのが怪盗って奴の性分なんでね。単刀直入に訊くぞ。テメーのところにクロエ・ヴォーティエが来たはずだ。どこへやった?」
    「知らぬよ。そして、例え知っていたとしても貴様のような奴に教えてやる義理などない」
    「だろうな」
     静かではあるがはっきりと己に向けられる敵意の純度の高さがビリビリと肌を刺し、閃光は久々に味わう他者の重圧に思わず不敵な笑みを浮かべた。
    「だったら居直り強盗するまでだ。悪いが俺ぁ一度狙った獲物は諦めねえ主義でね」
     懐から抜いた銃の先を怪人に向ける。傷つける必要などまるでない。一瞬怯ませたじろがせ、こちらから注意を逸らせられればそれでよい。
     が――
     きぃいいいい……んっ、
     怪人がこちらへ掌を掲げた瞬間、およそ人間の聴覚では知感出来ない域の高周波が放たれた。言うなればそれは、空気の振動による物理的な干渉だ。
     普通の人間であれば影響を受けることのない超音波のパルスは、イルカや蝙蝠などが仲間とのやり取りや獲物の位置を把握するために用いられることが有名だが、それらは少しでも幅が違えばノイズにしかならない。電波の波数と同じように拾って不快なレベルから有害なものまで様々だ。
    「ぐ、あ……っ、ああ……!!」
     まるで直接鼓膜を突き破られたかのような衝撃に、思わずその身体が傾ぐ。通常の五倍の可聴域を誇る閃光にとって、聴覚を支配されると言うことは身体の平衡感覚や方向感覚すら思うがままにされると言うことだ。叩かれた鐘がぐわんぐわん震えるのと同じ原理で、視界が歪み頭が割れそうなほど痛む。
     耳を押さえた指の間から血が噴いた。
    「閃光……っ!!」
     倒れ込むようにその場に蹲った主人にロキは慌てて駆け寄った。〈魔導人形(オートマータ)〉である彼もかなり広域の聴覚を保持しているが、生物の神経と仕組みが同じではないためそれほどの影響は受けずにすんだらしい。
    「良すぎる五感を持つと言うのもご苦労なことだな……それとも獣には音楽や芸術を理解する感性はないかね?」
    ――この人は……
     閃光の能力を知っている。
     ロキはまるで氷の塊でも押しつけられたように、ゾッとしない気分になった。
    「さあ、帰りたまえ。そして今回は諦めることだ。私は大事なものに手出しされねば、貴様らをどうこうしようとは思わん。だがこれ以上その薄汚い手を伸ばすと言うなら、黄泉路を往く覚悟を決めることだ」
    「……〈魔晶石〉が、この世界にあるべきではないものだとしてもですか?」
    「それを決めるのは貴様でも貴様の主人でもあるまい。耳も命も粗末にするべきではないぞ、音楽のない世界ほどつまらぬものはない」
     ゆっくりと踵を返す背中を黙って見送る。閃光に意識があったならとっとと追えと怒鳴られていたかもしれないが、ロキに取って大事なのは任務を遂行することではない。閃光が必死になって追っているから手を貸しているだけだ。
    ――そうでなきゃ……
     誰が命を懸けてまであんなちっぽけな石を追ったりなどするものか。運命に翻弄されるのではなく、自ら過ちに手を染め闇に堕ちて行く人間たちの安否を、気にかけたりなどするものか。
     意識を失った閃光の身体を庇うようにきつく抱き締め、ロキは奥歯を噛み締めた。


    →続く