長い階段を下って地下へ降りると、カゲトラは一応の礼儀で扉を叩いた。
     が、部屋にいるはずのナナキから返事はない。それほど気が長い方でないため、しばらく待つだとか二度目のノックをするだとか、そんな回りくどい方法を取る選択肢は最初からなかった。
    「おい、ナナキ。入るぞ」
     遠慮なく扉を開けて足を踏み入れる。しかし、そこに彼女の姿はなかった。階段は一本しかないのだから、擦れ違っていれば解るはずである。
    「どこ行きやがった……」
     ナナキがここで生活しているのだとすれば、まだ寝ているのだろうか? 奥に備えつけられた扉を念のため、もう一度叩く。が、やはり返事はない。
    「ナナキ、いるなら返事し……」
     少しばかり苛立って、躊躇なく開けた扉の向こう――ナナキはすーすーと規則正しい寝息を立てながら、ぐっすりと眠っていた。しかし、曲がりなりにもそれなりの年齢の女性が何も纏わず、掛布だけのあられもない格好で就寝するのは如何なものか。
     記憶にある赤と黒の濃い色とは違う、目を射抜くような真白にしばし視線を釘付けにされる。差し込む灯りを弾く瑞々しい肌、惜しげもなく晒された――均整が取れた中にもふくよかな曲線を描く胸元や、腰から脚にかけての優美さ。少女と女の色合いを絶妙にない交ぜにしたような危うさは、男の本能をこれでもかと刺激する。
    「ナナキ!! 服着ろ、この馬鹿仕事だぞ!!」
     腹の底から込み上げて来た怒りのままに怒鳴り上げると、ようやくその黄金(きん)の双眸が面倒臭そうに開かれた。ゆっくりと起き上がったナナキはその裸身を隠すでもなく、猫のように大きく伸びをしながら、
    「何じゃ、カゲトラか……騒々しい男じゃの。わしは朝が弱いんじゃ……あまり大きな声を出すな」
    「阿呆か、今何時だと思ってんだ!! いいからさっさと俺の得物を寄越せ! その後からなら好きなだけ惰眠を貪ってろ」
    「得物……?」
    「黒須サンがこっちに届いてるはずだって言ったんだよ」
    「あー、多分あれのことかの?」
     部屋の隅の、まるでぽいっと投げ捨てられたかのように無造作に転がされっ放しの荷を、指差しながら欠伸を噛み殺すナナキに、堪忍袋の緒が引き千切れそうになりながらも、カゲトラはどすどすと足音荒く彼女の傍らを通り過ぎた。
    「テメー他人の得物を何だと思ってやがる!?」
    「そんなことを言われても宛名もなし、主が来ると知ったのもつい昨日。どうせ本部の馬鹿共がまた下らないものを送って来たんじゃろうと思っての。放り投げはしたが、それくらいで壊れる代物でもあるまい」
    「ふっざけんなよ、投げんなよ! 投げたんかよ!!」
     眦を吊り上げながら叫ぶと、元々悪い人相がますます凶悪さを増す。大体の女はこれで真っ青になり泣き出すものなのだが、ナナキは変わらず隊服に袖を通しながら、こちらへ呆れた視線を投げて来た。
    「だから、知らんかったと言うておるじゃろうに。大体、主はそれを持ってどこへ行くつもりだったのだ?」
     長筒のような布袋に収まっていたのは一振りの刀だった。紐を解いて現れたのは朱鞘でやや長め――二尺三寸と言ったところだろう。が、ただの日本刀でない証に、鍔にあたる部位には奇妙な機巧が備えつけられていた。どうやら小さな蒸気駆動らしい。
    抜刀の際邪魔になるほどではないが、今まで通りの感覚で扱おうとすると絶対違和感があるだろう。
    ――これが、あいつらにも対抗出来る得物……
    「どこって……取り敢えず、こいつの練習……とか?」
    「それにしたってわしがおらねば解らぬじゃろうに。言っておくが、黒須は『魔神兵装(ましんへいそう)』について何も知らんぞ」
    「ち……っ、役に立たねえちっさいオッさんだな」
    「そう言うな。内部での駆け引き手腕に長けた者がおらねば、何事も上手く行かんのが世の中と言うものじゃ。それより、カゲトラ」
     すっかり身支度を整えたナナキがちょいちょいと指先でこちらを招く。
    「ぁんだよ」
    「街へ向かう。一応薬は持って行くが、万が一にならぬよう主の血を寄越せ」
    「昨日あんなに吸ったのにか? 不便な身体してんなぁ」
     嫌そうに眉をしかめはしたものの、カゲトラはすぐさま袖捲りをして利き手でない左腕を差し出した。これなら刀を握るような事態になっても、痺れて感覚が鈍ることはあるまい。が、何故かナナキまで眉を寄せて返して来るではないか。
    「腕は固いから嫌じゃ」
    「贅沢言ってる場合か! もういちいち面倒臭えから、予め注射器で抜いておくとかじゃ駄目なのかよ?」
    「血はすぐ酸化するんじゃ、そんなもの飲んでわしが腹を壊したらどうする。早く首を出せ」
    「…………お前、本当勝手だな」
     言い合いをしたところで彼女が折れることはないだろう。ならばそれは時間の無駄だ。別に急ぐ理由はなかったが、口喧嘩で女に勝てる気もしない。
     諦めて襟元を寛げると、ナナキはにんまりと笑って舌舐めずりをしてからそっと伸び上がった。口唇を近付けた瞬間、くんと鼻を動かす。
    「主は煙草を吸うのか?」
    「あ? ああ……何か文句あるか? まさか血が不味くなるから止めろなんて言うんじゃねえだろうな?」
     最大限に拒否を体現した表情を浮かべるカゲトラを、一瞬きょとんとした顔をしてナナキは楽し気に笑った。
    「いくらわしでもそこまで無茶は言わぬ。それにこの匂い、嫌いではないの」
     柔らかな口唇が重なる感触。甘い舌がちゅく、と表面をなぞる。が、カゲトラに取っては過剰な触れ合いは煩わしいだけだ。
    「いいから早くしろよ。痛えのは慣れてんだから」
    「何じゃ、先程わしの裸全部を見たくせに睦むのは嫌だと? 主に取っては役得であろうに……味見しようとは思わないのかえ?」
    「…………あんま大人を揶揄って挑発してっと、あんあん啼かすぞ糞餓鬼」
     双眸を細めてこちらを煽るナナキへ、負けじと眇めた眼差しをカゲトラが投げると、彼女はそれを片手で叩き落とすように笑った。
    「餓鬼はどっちじゃ。わしは十三大隊創立時からの唯一の生き残りぞ。主の拙い手管で啼くような生娘と一緒にするな」
    「…………まじかよ」


    →続く