「言ってる傍からか!」
    「あ、おいカゲトラ!」
     反射的に走り出す。
     何事か、とこちらを振り返る人混みをすり抜けて通りを渡り、迷わず一際狭い路地に飛び込んだ。ごちゃごちゃと荷物の積まれた人気のないそこは、誰かに危害を加えるのにちょうどいい。
     例えナレノハテでないにしても、放って置く訳にはいかなかった。
    「おい、テメーらそこで何やってんだ!?」
    「あぁん? 何だうるせえな……あ」
    「ああああああっ!! てめ……佐々!!」
     そこにいたのは元上官である第五大隊隊長とその取り巻きである彼の部下――つまりは、カゲトラの元同僚たちだった。彼らが取り囲んでいるのは、飯屋の女中らしき女性二人である。
    「これはこれは、めでたく廃棄区画に左遷された『元』下僕のカゲトラ君じゃあないか。二度と顔を見なくてすむと思ってたのに、本当に油虫ってのはどこにでも沸いて出るもんだな」
    「んだと、テメー……今度は前歯一本じゃすまねえぞ。親でも判別つかねえようにボコされたくなかったら、そのオンナ共放してとっとと俺の前から失せろ。こちとら次会ったらぶっ殺してやろうと待ち構えてたからよ……加減はしねえぞ」
     指を鳴らしながらそう凄むが、向こうも人数で勝っていると言う確信があるから余裕の表情を崩さない。
    「カゲトラ、貴様相も変わらず無礼な若造め!! 大隊長『様』をつけろよ、この野良犬風情が!」
    「この前貴様の方がぼろ布にされたのを、もう忘れたのか!? 平民のくせに、俺たちに逆らってただですむと思うなよ!!」
    「今手出しをすれば、隊内の揉め事などと甘っちょろい処分ではすまぬ! 貴様は士族に逆らった罰で今度こそ斬首、異動先も丸ごとお取り潰しだくそったれが!!」
    「テメー……らぁ、」
     ぎりぎりと歯噛みしながら、今にもカゲトラが鯉口を切って得物を抜こうとした瞬間、柄を握った手を上から押さえられた。
    「やめんか、馬鹿者」
     ナナキである。
     華奢なはずのその手はがっつりとカゲトラを抑えたまま、静かに佐々たちを見据えていた。
    「邪魔すんならテメーからぶっ飛ばすぞ、ナナキ」
    「私情で『魔神兵装(それ)』を振り回すなら、わしがその首を落とすと言うておるんじゃ。主こそわしの邪魔をするな」
     突如現れた少女に佐々たちは下卑た笑いと口笛で囃し立て、煽り挑発する。軍帽を深く被って角を隠している姿は、さながら士族の腕に覚えのあるじゃじゃ馬娘が、男に負けじと軍人ごっこをしているようにしか見えないだろうから、いい揶揄いの対象だ。
     こんな輩はナナキとて反吐が出るほど嫌いそうなのに、何故黙って見過ごそうとするのだろうか。
    「うちの新人が要らぬお節介をしてすまなんだ。巡回をしておった故気が立っておってな。我が部隊の管轄区域(シマ)で何ぞ揉め事かえ?」
    「いや、わざわざ君の麗しい手を煩わせるまでもないよ。我々は飯屋で大層不快な思いをさせられてね。この雌猫たちへ躾をするだけさ」
    「そんな……私たちは、順番にお客様へお食事を運んでいただけで……」
    「黙れ!! 我々士族と貴様ら下賤の輩の順番が、平等であるはずがなかろうが!! 身を粉にして国を守る我らを、優先するのが当然であろう!? いつ何時有事じゃと呼び出されるか解らんのだぞ!」
     取り巻きたちの恫喝に、娘たちはびくりと身体を強張らせて真っ青な顔で俯く。
     例えどれほど無茶苦茶な言い分だろうと要求だろうと、支配階級である士族華族が「黒」と言えば白いものでも黒と答えねばならない。物心つく前からそうして教え込まれて育つ平民は、その大半がおかしいと思うことすら出来ずに、されるがままの暴力を受け入れてしまう。
    「そう言うことだから、何も案ずるような事態にはなっていないよ。これ以上は君の目を汚してしまうから、その駄犬を連れて帰りたまえ。それとも……君が代わって相手をしてくれるのかい?」
     人間は本当に怒りの臨界点を突破してしまうと、却って心に荒れ狂う感情の風雨が凪いでしまうものなのだと言うことを、カゲトラは初めて理解した。
     突如静まり返った己の内のせいで、世界から音が色が匂いが消える。見えているのはただ一点、佐々の無防備な首だけだ。思考よりも先に自然と動く身体に任せて、流れるような動作で得物を抜き放ち刃を振るう。
    ――テメーらみたいな奴らがいる限り、この国は腐って行くばかりだ……!!


    →続く