が、懐に飛び込んで来たカゲトラに対し、佐々はにやりと笑みを浮かべたままだ。
     元々あまり剣術は得意でない男のはずだが、やはり鬼化することで身体能力は飛躍的に上昇するものなのか、とん、と軽い身のこなしで間合いを外す。燃える切っ先は空を切ったが、構わずカゲトラはぐっと踏み込み掌中でくるりとシュラモドキを回転させた。
     再度牙を剥く黒鐵の刀身は、今度こそ真芯で佐々を捉えたはずだった。
     しかし、そこに男の姿はない。
    「な……っ!?」
     目の前にあったのは、斬り飛ばしたはずの鉄索(ケーブル)の先。膨れ上がった殺気はそれが先程まで転がっていたはずの、カゲトラの背後だ。
    ――しまった……! マジかよ、こいつ『入れ替わり』やがった……っ!
     だが、佐々の狙いはこちらの虚を突くことではない。彼の視線の先にいたのは、逃げることも叶わず抵抗する術も持たない部下たちだ。
    「何やってんだ!! 刀抜けぇっ!」
    「ひいい……っ!!」
     戦場でも武器を持たない一般市民を追い回す時だけ、嬉々としていたような輩である。己の立場が絶対優位、安全だと確信していなければ虚勢すら張れない――愚劣で怯懦な男たちだ。
     這って距離を取ろうとするその背中へ、佐々が振り下ろした鉄索が深々と突き刺さる。まるで縫い止められた昆虫のようにじたばたともがく彼らを嘲笑う大隊長の双眸は、最早人間らしい理性など残っていない。
    「血を……寄越せ。もっと、血を……あの野良犬を始末するための血を寄越せ!!」
     どくん、と喞筒(ポンプ)のように噴き上がる血泉を鉄索(ケーブル)が吸い上げる。容赦なく全身の血を抜こうとする機巧を、一閃斬り捨てたがこれはもう助からないかもしれない。
    「テメー、こいつら部下だろうが!!」
     言葉にはならない奇声を上げながら佐々が抜刀する。速い。その太刀筋を知らねば受け止められなかったかもしれない。が、その重さはカゲトラの知る一撃の数倍はあった。こちらの得物が普通の武器であったなら、あっさり真っ二つにされていただろう。踏み留まれずに押し込まれて吹っ飛ばされる。
    「ぐ……っ、は……」
     背中から積み上げた荷物の山に叩きつけられて息が詰まった。がらがらと崩れ落ちる瓦礫が邪魔だと言わんばかりに、肩口の銃口が光る。
    「…………っ!!」
     轟く炸裂音。
     回転式蒸気機関銃が間断なく弾丸の礫を撃ち込んで来る。荷物が弾け飛び、カゲトラ自身も何発もの鋼を穿たれた。肉が抉れ、血が灼ける。
     どがが……っ!!
     どがが……っ!!
     鼓膜をつんざき浴びせられる、絶対的な力の差――
    「くく……ざまぁないな、カゲトラ。犬はどんなに吠えたところで犬だ」
     胸倉を掴まれ、宙吊りに持ち上げられる。喉元を締めつけられずとも、負った傷が思ったより深くて声を上げられない。にたり、と笑う佐々の犬歯は吸血時のナナキと同じに鋭く尖っていた。
    ――なあ、やっぱお前も……こいつと同じ鬼なのか?
    「カゲトラ……貴様のせいで私は、以前から渇いて乾いて仕方がなかった。この身体を八つ裂きにして血を啜れば、満足出来る気がする……貴様をぐちゃぐちゃに犯して屈服させて、許してくれと泣き喚かせたら、これ以上ない至福が味わえる気がする」
     どっと地面に叩きつけられ、佐々が馬乗りになって来る。辛うじて首筋に突き立てられそうになった牙は得物で防いだものの、彼はそのまま兵装を砕き折ってしまおうとでも言うのか力は緩められない。
    押しつけられた中心は硬く熱を帯びていて、カゲトラは寧ろそちらの方にぞっと頭から冷水を浴びせられた気分になった。
    「冗談じゃねえぞ!! テメーにぶち込まれるくらいなら舌噛んで死ぬわ!!」
     とは言え、元々ある力の差を上からかけられては如何なカゲトラとて抵抗の仕様がない。かたかたと拮抗する刃が、徐々に徐々に下がって己の首を落とそうと近付いて来る。
     血腥い生暖かな吐息が触れ、刃を伝った佐々の唾液がとろりと滴り落ちた。怖気に任せて叫びかけたその瞬間、
    「何じゃ、主はそっちの趣味の持ち主だったのかえ?」
     横合いから痛烈な飛び蹴りを食らった佐々の身体が吹っ飛んだ。その際弾かれたシュラモドキをぱしりと掴み、華麗に着地して見せたのは戻って来たナナキだ。
    「それならそうと早く言ってくれれば、それなりに対処したものを。わしは偏見など持たぬぞ」
    「んな訳あるか馬鹿!! 遅えよ、どこまで連れて逃げてんだ!」
     ほっとあからさまに安堵してしまったのを悟られたくなくて、カゲトラは思わず割り増しで悪態を吐いてしまう。が、ナナキは気にした様子もなく、少しだけ嬉しそうに笑ってから魔神兵装(ましんへいそう)を彼に手渡した。
    「馬鹿者、きっちり三分じゃ。初陣にも拘わらず、よう持ち堪えたな。あとはわしに任せよ」
     その視線の先で起き上がる佐々は、最早人の形を成していない。まるで子供が戯れて作った粘土細工のように、恰かも蒸気四輪と合体したみたいな風体だ。機巧の多足が蠢いてこちらへ突進して来る。
    「よくもわしの大事な相棒に手出ししようとしたの……主のような擬きが百年早いわ」
     重々しい音と共に出現したのは、昨日見た腕が変形した砲門が豆鉄砲に思えるほどの長砲であった。駆動が唸り、甲高い音を立てて周囲の大気が収束圧縮される。
    「ちょ、おい……ナナキ、そんなのぶっ放したらあいつ死んじまうぞ!!」
    「構わん、最早あれはヒトには戻れぬ。止められなんだナレノハテは、やがて様々なものを喰らって陰人(オンヌ)になる運命じゃ。そうなる前にここで討つ」
    「…………っ!」
    「言ったはずじゃ、『相手を討つ戦のつもりでおらねば死ぬ』と……主が生かして捕らえようなどと手加減をするから、あやつら三人は死んだのじゃぞ」
     再び佐々の回転式蒸気機関銃が咆哮を上げる。
     しかし、その弾丸が届くよりもナナキの放った灼熱玉が彼を粉砕する方が早い。血と臓物と様々な機巧の破片を撒き散らしながら、たった今まで佐々だったものが爆散する。轟音と紅蓮の炎を上げて向かいの建物の壁まで全壊させてから、ようやくナナキはその機巧を収めた。
    「……そんな顔をするな、カゲトラ」
     確かに佐々も第五大隊の連中も、権力を振り翳して好き放題にやらかす、いけ好かないむかつく輩だった。何度か本気で斬ろうとしたこともあったくらい、そうして然るべきだと疑わないくらい、下衆でどうしようもない屑だった。
     けれど、何故だろう?
    ――これは……こんなのは違うだろう……
     ナナキの取った行動が間違っているとは思わない。しかしどうしようもなく込み上げて来るやるせなさに、カゲトラはぐっと魔神兵装(ましんへいそう)を握り締めた。
     十三大隊はこんなものと――今回は些か自業自得と言えなくはないとは言え、たった今まで罪なき一般市民であったかもしれないものと、戦わねばならないのか。
    「お前は……理不尽だと思わねえのか」
     況してやナナキは、彼らと殆んど違わない存在なのに。
     自分でも何に対して憤っているのかよく解らないまま、カゲトラは問う。
    「この国に……理不尽でないものがあるとでも?」
     いつの間にか落ちていた軍帽を、深く被り直してこちらを振り向いた彼女の表情は、影になっていてよく見えないままだった。


    →続く