まだ昼見世の時間にも関わらず、宵待月(よいまちづき)の周辺は人通りが多かった。極彩色の瓦斯灯の代わりに格子を華やかに飾るのは、艶やかな着物を纏った女たちだ。道行く男たちに投げかけられる甘い誘い文句と煙管の群れ。
     それもカゲトラとナナキが姿を見せると、さっと水を打ったように静まり返ってしまった。人垣が二人の行く手を察して真っ二つに割れる。
     事情など知る由もない人々は、一体何事かとざわめき浮き足立った。色めいて野次を飛ばして来る豪気な者もいたが、じろりと返したカゲトラの凶悪な眼差しに続く言葉はない。
     そんな中彼らを気にした様子もなく、ナナキは平然とした態度で濃鼠の暖簾を潜った。
     突然訪れた帝国軍の人間に、その場にいた者の顔が揃ってぎょっと凍りつく。後ろ暗いものが多いから『御店検分』を嫌って、と言うよりは、ただ単純にナナキが年頃の少女――況してや売られている花々に引けを取らない見目の美少女だったからだろう。
     あんぐりと口を開けた男たちに一瞥もくれず、彼女はつかつかと番台に歩み寄った。
    「楼主殿はおられるか?」
    「え、あ……えーっと、どのようなご用件で? お約束いただいておりましたかな?」
    「いや。ちと伺いたいことがある。もしご不在なら、わしは見世先にて待たせて貰う故に、構わずとよいぞ」
     優雅に上がり框に腰を下ろして足を組むナナキに、見世の雰囲気がぴんと張りつめた。当然だ。軍服にそんなところに居座られていては、客が寄りつかなくなってしまう。明らかに商売の邪魔、営業妨害だ。
     用心棒らしき男衆が、木刀を片手に部屋の隅からのそりと立ち上がる。力尽くでも追い出すつもりだ。
     帯刀の軍人相手に数人がかりとは言え、ナナキを女だと舐めてかかっているとは言え、それでも腕に覚えはあるのだろう。身のこなし、足の運び方を見れば、いずれもかなりの手練れであることは解る。中でも頭目らしい無精髭の男が一歩進み出て口を開いた。
    「……おい、嬢ちゃん。話があるなら俺らが聞く。今ここで言え」
    「主らと話しても時間の無駄じゃ。おいそれと誰にでも明かせる内容でもないしの。構うな、と言うたはずじゃ」
    「お前が構わなくてもこっちが構うんだよ! この玖街(くがい)にたった二人で喧嘩売ろうってのか!? 士族サマが何だってんだよ、ここにはここの掟がある!!」
     今にも飛びかかって来そうな男たちからナナキを庇うように、ざ、とカゲトラは立ちはだかった。柄に手こそかけていないが、落とし差しはそのままだし、左足を引いて半身開いた姿勢は、いつでも斬り合いに応じられるぞと暗に重圧をかける。
    「コチョウに」
     その上で堂々と懐から煙草を取り出し、一本をくわえて火をつけると、カゲトラは細く紫煙を吐き出した。
    「コチョウに『お前の小虎が会いたがっている』と言え。それなら応と言うはずだ」
    「んだと、テメー!!」
    「…………若造、姐(あね)さんの知り合いか」
     いきり立つ坊主頭を制し、無精髭が静かに問う。しかしその双眸に滲む殺意はその比ではない。抜き身の切っ先を突きつけられているかのような迫力に、カゲトラも視線を逸らさず応じる。
     しばしそうして空中で見えない火花を散らしていた男は、不意に目を伏せて踵を返した。
    「一応伺いだけ立ててやる。もし姐(あね)さんが知らぬと言うたら、袋叩きにしてやるからそこで待っておれ」
     彼にそう言われてしまっては、他の連中は勝手に手出しする訳には行かないのだろう。渋々と言った感を隠しもしないまま大人しく、のしのしと二階に上がって行く男の広い背中を見送る。
    「何じゃ、やっぱり昔のオンナではないか」
    「違えっつってんだろ」
     揶揄するようにくくく、と意地悪く笑うナナキをじろりと睨みやる。
     程なくして、男はみしみしと板を踏み鳴らしながら仏頂面で降りて来た。納得が行かない、と言いた気な思いがありありと伺える顔だ。
    「十分だ。姐さんはそれ以上時間が取れない」
    「うむ、構わぬ。騒がせたな」
     ナナキは当たり前のように軍靴を脱ぐと、無精髭の後に続いた。カゲトラもそれに倣い、番台へ得物を預ける。ナナキは『帯刀していない』が、通常は腰のものを外してからでなければ座敷へは上がれない。
     廓内で余計な揉め事を起こさない用心である。そして何より、浮き世の雑事を持ち込むのは無粋と見なされた。
     緋毛氈の敷かれた廊下は瓦斯(ガス)灯の明かりも最小限に絞られ、仄かに甘い香がどこからともなく漂って来ては鼻孔をくすぐる。襖の向こうのくぐもった和えかな声、非日常の空間は五感の全てを狂わせる。
     男が足を止めたのは、一際豪奢な柄の描かれた襖の前だ。無駄のない仕草で跪き、
    「姐さん、ワスケです。例の小虎とやら連れて来やした」


    →続く