久し振りに風呂に入ると生き返った気がした。
    戦場に出れば水は貴重だから、何日も風呂に入れないことなどざらにあるが、やはり泥に塗れ返り血に汚れずとも、生きているだけで人は汗をかき不要物を代謝する。それが表面に浮き出て臭い出すと、どうしても己が獣畜生に堕ちてしまったような気がするのだ。やはり、人間らしい生活と言うのは大切である。
     鏡を覗けばいつも通り短く散切りにした黒髪に、目付きが悪いと必ず難癖をつけられる三白眼、両頬に二対の刀傷、決して人相がいいとは言えない己の顔と対面だ。おまけに今はまだあちこちに鬱血した痣が刻まれ、包帯やら何やらに塗れているため、酷い有り様である。
    ――それにしても……
     新しく誂えられた隊服に袖を通しながら、カゲトラは思う。帝国軍の軍隊服は、枯草色と言うか砂色と言うか、まあ有り体に言ってしまえば地味な色で、造形も実地一辺倒な余計な遊びのない代物だ。
     ところが、十三大隊の隊服は黒を基調とした中にも所々真紅の線が入った洒落たもので、和洋折衷の別格感漂う一品だったのである。
    ――柄じゃねえな……
     と言ったところで、元着ていた隊服はぼろぼろだったこともあって処分されてしまったのか、籠の中に収められているのはこれだけなのだから仕方ない。まさか上官の前に下着一枚で参上する訳にも行かないだろう。そこまで捨て身になれるほどの恥知らずではない。
     伸びていた髭も剃ってさっぱりと身支度を整えたカゲトラは、警邏官に案内されて十三大隊まで向かうことになった。手錠こそ外されはしたものの、両脇をがっちり固められていては囚人気分を拭えないままである。
     そのまま通常の庁舎へ向かうのかと思いきや、外へ出て停車していた蒸気四輪車へと押し込められた。狭苦しい車内に体格のいい大の男が三人も無理矢理乗るのだから、息が詰まりそうだ。
    ――窓に鉄格子ってお前、これ護送用のだろ……まんま犯罪者じゃねえか!
     苛立ちでそう叫びたいのをぐっと堪えて、カゲトラは傍らの男に問うた。
    「十三大隊ってのは別の場所にあるのか?」
    「……特殊、秘密裏だと言ったはずだ。同じところにいたら業務内容が漏れるだろう。それに……あんな設備のところには置いておけない」
    「どう言う意味だ?」
    「とにかく、行けば解る」
     文句を言ったところで始まらない。どんな任務であろうとどんな場所にあろうと、十三大隊に行く以外の選択肢は今のカゲトラにないのだ。
     外を見やれば、相変わらず帝都ヒガシノミヤコの空は重たい鈍色に染まっている。人々が吐き出す廃蒸気が溜まって出来た灰霧は、決して晴れることなくこの国の空を覆っているのだ。
     前大戦で国土の半分を失うほど大規模な被害と損失を出したにも関わらず、この蒸気駆動機関の開発と発展でヒノモト帝国は短期間での復興を果たし、戦前と比べても大きく前進したとされているが、繁栄の光が強ければ強いほど、その背後に出来る闇も深く昏い。
     蒸気四輪は門を出ると西へ折れて走り出した。大通りを避けて海岸沿いへ出たせいか、ぐんぐん視界から高い建物が消えて行く。
     天を突くほどの高層ビルディングが群れを成しているのは、ほんの一握りの上流階級が住まう区画だけで、中流階層では建物はぐっと低くなり、下層地区では違法改築や建て増しが行われた今にも崩れそうな古い打ちっ放しがあれば、まだ恵まれている方だった。
     潮の匂いよりも、海面を覆うどろどろとした重油の臭いの方が鼻についた。
     そこすら抜けてどのくらい走っただろう。ただひたすら瓦礫が捨て置かれ、いよいよ住まう人の気配がなくなって来た辺りで、カゲトラは己の危機を察知する本能的な器官が、むずむずと騒ぎ立てるのを堪え切れなくなって来た。
     幾多の修羅場を潜り抜けたことで培われたそれは、今から訪れる場所が、最早人の足を踏み入れていい領域ではないことを必死に叫んでいる。
    ――この辺りは廃棄区画だろ……おいおい、十三大隊の特殊任務ってどんだけヤバいことしてんだ……
     全身が総毛立つ。
     ぞわぞわと込み上げて来る悍ましさに、今すぐ扉を蹴り開けて逃げ出したい衝動に駆られた。
    ――だからって……逃げてどうするってんだ?
     脱走兵として捕まれば、今度こそ死罪は確実だ。もし上手いこと雲隠れ出来たとしても、闘う以外にろくな才のない自分では、身を持ち崩す未来しか見えない。
     どう生きたいか、と言えば己の信条に反することのない少しでもまともな道を歩いていたい。
    迷う余地などありはしなかった。
    ――覚悟決めろ、俺!!
     ぐっと膝の上で拳を握り締める。


    →続く