「……何を、やっているかと訊いている」
     じゃり、と雪駄の底を鳴らして、ゆっくりと揺らぎながらこちらとの距離を詰める修晟。その眼差しは虚ろで焦点が定まっておらず、暗い火を燻らせる火口のように、いつ爆発するか解らない危険を孕んでいた。
    「何って……閃光の食事の世話よ。私が全部やっていいって、父様、ちゃんとそう言ったでしょう?」
    「必要最低限は許したがな……置いたらさっさと出ろ。話す必要なんかない。況してや、檻の中入っていろいろ手を貸してやる必要もない。そいつだって餓鬼じゃないんだ。自分で出来るだろ。お前に穢らわしい獣が感染(うつ)ったらどうする」
    「そんな言い方しないで、閃光は病気じゃないわ。父様に取っては、私と同じ血を分けた実の子供でしょ!? 今日が何の日か知らない訳じゃないくせに、どうしてそんなにこの子を邪険にするの!?」
    「『これ』が血を分けた実の子供? 反吐が出る。そんな風に思ったことは、ただの一度もない。お前の方こそ父親に対する口の利き方に気をつけろ!!」
     手にしていたらしい酒瓶が投げつけられて、すぐ傍らで砕け散る。その悲鳴のような派手な音に身を竦めたまほろへ、修晟は嘲るような声を投げた。
    「見ろよ、まほろ……これが、この獣が化け物が、どうして息子だなんて思える」
     見れば、一体いつ檻から飛び出したものか――閃光の小さな身体が押さえ込まれていた。その手には酒瓶の破片が握られている。己の掌が傷付くのも構わず父に向けられたそれは、人を害するには充分な鋭さを帯びていた。
     予測していたのか、まだまだ修晟の方が上手であるのかは定かでなかったが、床に叩きつけられ、後頭部と利き手をめり込ませられたまま馬乗りになられては、さすがに規格外の身体能力を誇る閃光とて成す術がないのだろう。もがいて振り解こうと暴れるものの、そこは経験が豊富な父の方が器用だ。
     が、
    「………………っ!」
     突如顔を顰めて飛び退いた修晟の手から、ぼたぼたと血の跡が床に刻まれた。見れば、起き上がった閃光は食い千切ったのであろう彼の薬指を咥えて、にたりと嗤っている。その眼差しは、おおよそ理性があるとは言い難い獣の――血に飢えた人外の狂気を帯びているように見えた。
    「駄目よ、閃光……っ!」
    「…………んで……」
     ぺっと滴る血と共に父の指を吐き捨てた閃光は、真っ直ぐに修晟を見遣って吠えた。
    「だったら、何であんたの代で終わらせなかった!?」
     穢らわしいと、呪われていると散々口にするのなら、本来彼が子を成さねばすんだ話ではないか。次世代にその血を紡がなければ、そこで悲劇は終わった話ではないのか。誰も傷つかず、悲しむこともなく、静かに知られず消えて行けばよかったのに。
     その業を背負い切れず、罪悪を撒き散らして拡大させたのは、
    「……あんたの弱さだろう」
    「黙れクソ餓鬼!!」
     まだ座り込んだままでいた閃光の体躯を、修晟が蹴り上げる。血反吐と苦鳴をこぼしながら床をもんどりうって転がる息子を、なおも蹴りつけ踏み躙る父の双眸は血走り、悪鬼羅刹もかくやな表情を浮かべていた。
    「お前に何が解る!? いいか、問題は我が家だけじゃねえ。この大神村全てに関わることになる。天狼家が倒れると言うことはな、ここに住まう輩みんなが立ち行かなくなるってことなんだ!! 代々この地で盟主を務めるってことは、それだけ大きく重い責務を負ってるってことなんだよ!!」
    「父様、やめて……っ! そんなにしたら閃光が死んじゃうわ!!」
    「上等だよ。もういいだろう、殺しちまって。大体最初からそのつもりだったんだ。何やかんやで今までしぶとく生き残って来やがったが、テメーが死ねば大団円なんだよ!!」
     閃光がもうぴくりとも動かなくなっているにも関わらず、なおも修晟は大きく足を振り上げた。まほろが庇うように身体を投げ出して覆い被さっていなければ、間違いなくこの父は躊躇せず息子にとどめを差していただろう。
     すぐ傍らを掠めた雪駄のどこかが触れてしまったのか、まほろの頬をつ、と一筋血が伝った。それを見遣って双眸を細めた修晟は、急に興が削がれたように息を吐いて、ゆっくりと踵を返した。
    「そうやって……お前もそいつを庇うのか」
    「え……?」
    「……何でもない。さっさと戻れ、まほろ」
    「手当だけ、したら戻ります」
     鼻を鳴らして、広い背中が遠ざかる。
     けれどどうにも、まほろにはそれが虚勢に見えて仕方がなかった。本当は――一番怯えているのは父なのかもしれない。己が血に飲まれない保証などどこにもない。また、まほろが獣憑きとして目覚めない保証もどこにもない。『赤い目は獣憑きの証』など、所詮根拠のない言い伝えに過ぎないのだ。
    「閃光……」
     そっと髪を撫で、傷だらけで血に塗れた身体を抱え上げて檻の中へ運ぶ。
     もう常備となってしまった治療箱を開けて、傷の手当てをしてやる以外何もしてやれない自分が、不甲斐なくて情けない。
     時折見せる狂気と暴力への愉悦を、己を喰い破ろうとする何かを、閃光は必死に押さえ込んで内で戦っているのだろうと思う。きっとこの聡い弟は、己が『普通に』生きることがどんなに難しいかを理解しているだろう。
    ――それでも……
     まほろは願わずにはいられないのだ。
     修晟と閃光が憎み合わずに普通の親子に戻れる方法はないのかと、三人仲良く団欒出来る日は来ないものかと。


    * * *


    →続く