苛立ちに任せて即座に攻撃して来るかと思いきや、ウォルフは意外にもミツキに向き直って微かに笑みを浮かべてみせた。
    「……随分前のことになるけど、僕が最初に見つけた獲物を持っていたのは、製薬会社のヒヒ爺だった。ワクチン開発の権限を独占する一方で、人工的に作った病原体やウイルスで貧しい国に疫病を流行らせ、多くの人が苦しむ様を笑って酒の肴にするような、気紛れで虐殺するようなイカれた頭の持ち主さ。それでも僕は便宜上礼儀を払って、そのくそったれに〈魔晶石〉を譲ってくれと丁重にお願いした」
     ウォルフの表情はいつもと同じ穏やかな笑みで、人当たりのよい穏和そうな空気に変わりはない。けれどその紫暗の双眸に浮かべられた侮蔑と嫌悪は南極の氷山よりも鋭く冷たく、ミツキを通してその男の影を貫く。
    「でも、そのヒヒ爺は僕に何と言ったと思う? 『金は腐るほどあるから要らない。代わりに君がわしのペットになると言うのなら、喜んで譲ろう』」
    「ぺ……ペットって……」
    「文字通り愛玩動物さ、性的な。その汚い股ぐらにぶら下がったものをくわえ込むために、脚を開いて尻を出せって意味だよ。あとはまあ、実験体的な?」
    「………………っ、」
    「こんな珍しい成りだからね。そう言われたのは一度や二度じゃない。だからって僕がそんな無様な要求を飲む必要なんか、ないと思わないか? 仕方ないから、代わりに僕はそのヒヒ爺を八つ裂きにして〈魔晶石〉を奪った」
     飲み込み切れない何かが喉奥から競り上がって来るような気がして、ミツキはぎゅっと胸元を掴んだ。何かに縋っていなければ、途方もない悪意と胸糞の悪さに正気を保っていられない気がする。
     真っ青になって倒れそうなのを必死に踏ん張るその姿を見て、ウォルフはなおも楽しそうに言葉を続けた。
    「そうそう、渡す代わりに殺して欲しい相手に加える拷問リストを差し出して来た、サディスト婆もいたよ。その様子を残らず撮影しろとか面倒な注文つけてさ……ムカついたから、そのままそのリクエストメニューを本人に施してから、獲物をいただいたこともあったね」
    「………………」
    「解るだろう? お嬢ちゃん」
     カツコツと靴音を鳴らしながら近づいて来たウォルフが、ミツキの顔を覗き込む。まるで恋人に口づけるほどの距離で双眸を細めながら、鉤爪と白い剛毛に彩られた指先は頬にかかったその髪をそっと払い、緩く絡めて弄ぶ。
    「これが僕たちの……僕や閃光の生きてる裏側の世界だ。弱味を見せたら途端に喰い殺される。金や権力や暇を持て余した人間はね、必ず他者の命と身体を玩具にして遊ぶんだ。そんな死んでも仕方のない、誰も悲しまない自業自得な奴らから必要なものを手に入れるにはどうしたらいいか……答えはただ一つ、殺してでも奪い去るしかないんだよ」
    「…………」
    「多かれ少なかれ、閃光だってそうやって生きて来たはずだ。じゃなきゃあ、あんな目つきにはそうそうならない……僕らは世界にいろんなものを奪われた。それを取り返してるだけだ、正当な理由でもって」
    「それでも……それでも閃光は貴方みたいに、徒に面白半分で無関係な人を殺したりなんかしないわ!」
    「それは君の知る範囲でだろう? 君が一体彼の何を、どれだけ知ってるって言うのさ?」
     ぐうの音も出ないほどの問いを突きつけられて、続く言葉が出て来ない。
     知りたいと願えば願うほど、知ろうとすればするほど、閃光がミツキを遠ざけようとするのは、こうしたヘドロのような澱が一歩踏み込んでしまった先には際限なく広がっているからなのだろう。
     絡め取られてしまえば、どんなにもがこうと足掻こうと、戻れなくなってしまうことを誰よりもよく知っているからだ。
     けれどそうやってウォルフが閃光を同類だと言うのが、ミツキには堪らなく嫌だった。
     否定をするだけの言葉が欲しかった。
    ――私が勝手に、信じてるだけかもしれないけど……
     悔しさに引き結んだままの口唇を歪めるミツキを鼻で嗤うと、ウォルフはそのままゆっくりと踵を返した。
     ロキと擦れ違いざま、
    「嫌だな……そんなに警戒しなくても、ここじゃ何もするつもりはないよ」
    「…………」
    「じゃあ、他の奴らはさっさと見捨てて、早く避難した方がいいよ。こんなつまらない理由で死ぬなんて、それこそ本当につまらない」
     言うなりひらりと宙空に身を躍らせて、ウォルフはその姿を消した。見えない重圧から解放されて、ミツキは知らず止めていた呼吸をほっと吐き出す。
    「ミツキさん、何て無謀な真似を……」
    「ごめんなさい」
     それは呼吸も乱れない冷や汗もかかないはずのロキですら同じだったのか、眉を寄せて咎められた声にミツキは素直に謝った。
    「これ以上冷や冷やさせないで下さい……それより早くこの船をどうにかしないと」
    「ええ……あと五分で撤退しろってことは、強奪した金品かき集めてこの船を脱出しろってことよね? となると、やっぱり確実に墜落させるために爆弾か何かをしかけてるってことかしら?」
    「いいえ、僕たちが計画実行前に船内を探索した時、そんなものは一つもありませんでした。面倒な手間をかけずとも、この船を爆発させることは可能です。ミツキさん、こんな巨大なものがどうやって浮いてると思います?」
    「あ、そうか……ヘリウムガス」
     鯨鵬は直径三十五メートル全長一二八メートルの、巨大なエンベロープに支えられて飛んでいる。膜材ではなく、薄い金属版で形成されたその内部は、溢れんばかりの浮揚ガスで満たされているのだ。軽量化に成功しながらも、竜骨(キール)やワイヤーなどで幾重にも頑丈に補強された、折り紙つきの頑強さを誇る代物とは言え、その底辺部にくっついていたゴンドラで、先程まで繰り広げられていた戦闘の衝撃が全く伝わっていないはずがない。
     ガスが漏れ出したから、と言ってすぐに墜落するような設計にはなっていないはずだが、ふとした弾みでそれに引火してしまったら大爆発である。『不意にどこかから飛んで来た』たった一発の弾丸が船体に突き立てられたその火花すら、充分火種になるだろう。
     飛行船事故の大多数は、風や雲に巻き込まれた末のエンジントラブルから来る火災だ。逃げ場のない空の上、事故を起こせば一貫の終わりである。


    →続く