無事に陸を踏み締めた大半の人々は恐怖と安堵から涙し、毛布に包まれたり、ストレッチャーに乗せられたりして救急隊の手当てや看護を受けることとなったが、ミツキはそのままパトカーが並んで停車している方へと足を向けた。
     文保局の地味な車体も目に留まったからだ。やはり晩酌中だったのか、無理矢理スーツに巨躯を押し込んで来た感の拭えない上長は、ミツキを見るなり瞬間湯沸し器のように真っ赤になって怒声を上げた。
    「よくものこのこと顔が出せたな、この無能女め!! 李先生は額に切り傷を負われて緊急搬送されたんだぞ!!」
    「申し訳ございません」
     悔しさを噛み締めながら、深々と頭を下げる。
    「ですが、香炉は現時点で行方不明です。一刻も早く検問を敷いて、逃げた犯人と共に探さないと……」
    「馬鹿か君は!? これだから私は女が現場など務まらんと……」
    「終わってしまったことはもういい」
     不意に割って入った声音に、思わずぱっと顔を跳ね上げる。
     視線の先に立っていたのは、バインダーに挟まれた資料で上長を押し退けながら歩み寄って来たまだ若い男だった。ちょうど等々力と同じくらいだろうか。急ぎ足で近づいて来たせいで、きれいに撫でつけられていた髪が一筋はらりと崩れ落ちてはいたが、それ以外は榛色の鋭い双眸を始め一切隙を伺わせない雰囲気の持ち主だった。
    「し、子宇(しう)管理官!! 何故こんなところへお越しに!?」
    「李家には以前から注意を怠るな、と言っていたはずだぞヤン支部長」
     あたふたと赤くなったり青くなったりする男の口髭をじろりと睨んでから、子宇と呼ばれた男は携帯端末に地図を展開させるとミツキを見やった。
    「香炉消失地点と、君が考えうる犯人の逃走経路はどこだ? 因みにこの赤い点滅が、墜落地点だ」
    「えっと……多分、消失地点はこの辺りです」
     やや迷いながらもミツキが指差した箇所を見つめ、子宇は双眸を細める。
    「……離れているな」
    「香炉は〈神の見えざる左手〉襲撃の最中にバレットが盗み出しました。その後筆頭のウォルフ・キングスフィールドと交戦になり、香炉を所持していると思われるバレットが落下したのが、この辺りだと思います」
    「成程。続けたまえ」
    「バレットは恐らく最短距離で上陸するでしょうから、この辺りとして……シャンハイシティを目指すのではないかと。〈神の見えざる左手〉は専門でないので詳細は解りませんが、近海に別動隊を配備しているようでした。バレットを追うならどの航路を取っても必ず市街に入るはずです」
    「シャンハイシティである根拠は何だ?」
    「ホンコンシティは李家のお膝元です。灯台下暗しを狙うにしても、危険度が高過ぎる。でも彼は逃走経路に、必ず人が多い箇所を挟みます。群衆に紛れ込み、私たちの目を欺くために。だからどれほど安易に思えても、見つかれば逃げ場のない航路は絶対取らない」
    「理には叶っているな。解った、それで検問を手配しよう。が、怪我がないにしても、君も早く着替えたまえ。こんな生温い熱帯夜でも風邪を引くぞ」
     てきぱきと指示を下す男の横顔をしばし見つめていたミツキは、ふと絶対的な確信を得られないまでも、あることに気づいて口を開いた。
    「あの、名前……子宇じゃなくて、ダミアン・モローさんでしたよね? 管理官になられたとは存じ上げず、先日は失礼しました。貴方もこちらに派遣されたんですか? 文保局って意外と異動が多いんですね」
     背後からかけられた無邪気な声に、普段滅多なことでは動揺しないはずの子宇――ダミアンは思わず足を止め、驚愕した。
     振り返って確かめずとも、あまり流暢とは言えないクセのあるこの英語を彼は知っている。知らないふりをしたがちゃんと覚えている。数ヵ月前、フランスのパリスに〈魔法遣い〉からの任務で潜り込んだ文保局で、日本から派遣されて来たと言う若い女だ。名前は確か鴉葉ミツキと言ったか。
     だが、そんなことは有り得ない。
     彼女がここにいるかどうか、そんなことは問題ではなく、ダミアンは今パリスに滞在していた時とはまるで違う背格好の変装をしている。同一人物だなどと言う発想は、そもそも出て来るはずがなかった。
     曲がりなりにも、こちらは潜入工作員としてもう何年も最前線で仕事をして来た身だ。ベテランの捜査官や敵国の同業者からも見抜かれないプロである自負は、こんな素人と大差ない小娘にへし折られるために存在しているのではない。
     ましてや、ダミアンはパリスを去る際にフランス支部全員の記憶をすっかり消す〈魔法術〉を施すための〈魔晶石〉をしかけて来た。神にも等しい完璧な〈魔法遣い〉に限って、誰かがかからないような不完全な〈魔法術〉を行使するはずがない。
     となれば、答えは一つだ。
     彼女の本拠地は日本である。あのオペラ座全壊の『事故』に居合わせたミツキは、最後にフランス支部に立ち寄ることなく帰国したのだろう。タイムラグがあっても間違いなくその影響下に置けたはずの、たった一つの誤算。計算外。想定外の存在。
    ――どうする……
     考えろ。考えろ。どうすることが主人である〈魔法遣い〉に取って最良であるのか。彼女一人を跡形もなく始末することくらい造作もない。
     ダミアンは今までに、もう数え切れないほど罪もない人々を闇に葬って来た。計画に支障を来しそうな輩を手にかけて来た。今さら罪悪感もクソもない。そんなものはとっくの昔、鼻を噛んだ時一緒に丸めて捨てた。
     だが問題なのは、ミツキを消した後に出て来るのは、間違いなくバレットであると言うことだ。
     彼の怪盗とやり合って勝てないから、ではない。勝つことは難しくない。だがあれは〈魔法遣い〉に取って、彼だか彼女だかに取って、その計画に取って必要不可欠な鍵だ。失くすことも壊すことも主人は許しはしないだろう。
     ごまかすか。
     いや、これほどの確信を持って話しかけて来た彼女を、このタイミングでこの沈黙を挟んでごまかすことは不可能だ。それならば選ぶべき答えはただ一つしかない。
     一つ気づかれないように小さく息を吐いてから、ダミアンはミツキを振り向いた。近づき、そっとその華奢な肩に手をかける。緊張に強張る腕に振り払われる前に、耳元へ口唇を寄せた。
    「すまないが、そのことは内密に頼む」
    「…………どう言うことですか?」
    「内定調査中なんだ……周囲に知られたら困る。君も耳に挟んだことくらいあるだろう?」
     これだけ告げればもう充分だ。
     李家の黒い噂と、先程の上長の態度。例えそこに明確な繋がりがあろうとなかろうと、人間は誰でも自分の知り得る近しい情報を無意識に纏めて捉えてしまうものだ。そして実際彼らの関係は、残念ながら潔白『ではない』。
     疑い全てを逸らせた訳ではないのだろうが、渋々と言った調子ながらもミツキは小さく頷いてみせた。
    「……解りました」
    「それじゃあ」
     後に続く言葉を封じるようにして、ダミアンは再び踵を返した。人波に紛れて完全に振り切れるまでじっと注がれていた視線に、背中が焦げつきそうだ。
    ――それこそ、李家の人間の仕業に見せかけて殺すしかあるまい……
     彼女は間違いなく、不穏分子になる。


    →続く