「そう言えば、鴉葉さん聞いたわよ。国際特別専任捜査官の資格取得したんでしょ? おめでとう。大出世じゃない」
     受付のろくに会話したこともない係の女性にそう言われて、取り敢えず「ありがとうございます」と返したものの、ミツキには顔見知りと言うのも憚られる薄い関係の相手にまで、そう言って貰えるのが何となく居心地が悪かった。
     確かに文保局創設史上初、と言う触れ込みではあったものの、それほど大それたものであると言う自覚はない。何せ、仕事内容は今までと何一つ代わり映えしないのだ。
     カタカタと電子端末のキーを操る、綺麗にネイルとデコレーションで彩られた指先を見つめる。
     その女性の象徴とも呼べる爪と、濡れたようなルージュの引かれた艶やかな口唇。自分にはないそれを、退屈な業務と引き換えに誇示する彼女は、それほど不満があるようには見えないのだが。
    ――そう言えば、ライラさんだっけ……閃光の女医さん、あの人もこんな感じだったっけなぁ……
     遠目にちらりと見ただけだから、それほど容貌の詳細が解る訳ではない。ただそれでも、正装のドレスであったことを除いても、華やかそうな印象の美女だったことは記憶に突き刺さっていた。
     そんなミツキの思考を浚うように、女性の声が滑り込んで来る。
    「各国の支部に自由に出入り出来るんでしょう? イケメンと期間限定の恋が楽しめるじゃない、いいわね」
    「はあ……私が行ったところ、オジさんばっかりでしたけど」
    「あら、それは残念。でも、貴方が担当の『怪盗バレット』。資料じゃ戦前から活動していることを鑑みても、かなりの高齢だなんて言われてるけど、本当は若くてイケメンだってネットじゃ専らの噂じゃない。ねえ、実際のところどうなの?」
     ずずい、とカウンターに上半身を乗り出して来る女豹のような仕草に思わず後退る。一体どこからそんな情報を仕入れて来るのやら。情報屋でなくともそれとはなしにネタを手に入れられる、現代の電子の海は恐ろしいものである。
     バレット本人が大っぴらにしていないと言うだけで、隠すつもりもなさそうなせいか、いろいろなことが駄々漏れではないか。
    「イケメンって言うか……まあ、二代目らしいんで、若くはあるんですけど……」
     脳裏を過った閃光の面影に、ミツキは「あはは」と乾いた笑いをこぼすしかない。
     狼を彷彿とさせる精悍な顔立ちは整っている、と言っていい部類だとは思うが、いかんせん自分の知る限り、彼はいつも不機嫌そうに眉間を寄せて無愛想なしかめっ面をしているし、何より稀有なその双眸を隠すためだろう、常に色の濃いサングラスをかけているため、素顔を拝んだことは片手で数えるほどしかないのだ。
    「じゃあ、追っかける理由としては充分じゃない。いいなー、あたしも特務課に転課届け出しちゃおうかなー」
    「そ、そんなんじゃないですっ!!」
     力の限り両拳をカウンターに振り下ろして大音声を上げてから、ミツキははっと我に返った。あんまり全力で否定するのも、逆に「はいそうです」と言っているように思われはしないか。
     呆気に取られて目を丸くしている受付嬢にごまかすような咳払いを投げてから、ミツキは早く鍵を渡せと言う代わりに右手を差し出した。
    「そんなんじゃないです。私はただ、彼に盗みをやめて欲しいだけです」
    「まあ、別に何だっていいけど」
     ちゃり、と事務的なタグのついた鍵をミツキの掌に乗せてから、受付嬢は熱の覚めたように冷やかな視線を向けて来た。
    「男に入れ上げるのも仕事に入れ上げるのも、ほどほどにしといた方が無難よ。尽くしたところで、どうせ爪の先程も返って来やしないんだから」
    「解ってます」
     失礼します、とぺこり頭を下げてから、ミツキは踵を返した。解っていることを他人から指摘されることほど、嫌な気持ちになるものはない。自分でも馬鹿げていることは重々承知の上なのだ。
    ――それにしても……
     今時、閃光ならピン一本三秒で開けられてしまうようなセキュリティー下で、個人情報が守られていると言うのは如何なものなのだろう?
     無論、別に違法なことや業務外の何かを調べようと言う訳ではないのだが、上司たちの心配を無碍にしているのだろう、と言う自覚くらいはあるのだ。若干申し訳ないとは思うし、経験豊かなその言葉に従う方がベストなのだろうことも解っている。
     けれど、
    ――仕方ないじゃない……あいつをもっと知るためには、こうするしかないんだもの……
     言い訳じみた言葉を胸にしながら、等々力には渡さなかった鑑定課からの資料ディスクとノートを鞄から取り出す。
    ――バレットは……閃光は説得すれば、きっと盗みをやめる……
     それしか手段がないから窃盗と言う犯罪に手を染めているだけであって、閃光は根っからの極悪人ではない、とミツキは思う。
     もし他の方法でもって己の呪いを解く方法が見つかれば、きっとそれ以上罪を重ねることはしないはずだ。先日、本人にそう問うた時は真っ向から噛みつかれてしまったが、その偽悪的な行動はいつだって、誰かを何かを傷つけようとしてではないことを、何度も身体を張って守って貰ったミツキは知っている。
    ――だから、私が止めたいと思うのは……ただの思い上がりで傲慢かもしれないけど……
     そのためにも、もっと彼のことを知らなければならない。閃光に問うたところでうるさそうに邪険にされるだけなのは解っているから、ミツキは自分なりの手段でもって調べてみようと決意したのである。
     当の本人も上司たちもその思惑など露知らず、ではあったのだが。
     狡い、とは思ったが、いつだか鉢合わせた現場で閃光がポイ捨てした煙草の吸い殻を、ミツキはこっそり拾っておいたのだ(何だかストーカーじみていて大変気が引けたのだが)。そこから採取した唾液からDNAが検出出来れば、いかに今まで逮捕歴がなくとも身元は割れる。
     出生時にそうした個体情報すら須らく登録しておく事態はなかなかに異常だ、とミツキは思っていたが、そんな自分が政府のこのメガデータバンクを頼る羽目になろうとは今まで考えもしなかった。
     こんな形で、しかも閃光本人には内緒で個人情報を得ようとするのは心苦しかったが、ミツキはあまりにも彼のことを知らなさ過ぎた。追おうにも、手がかりがなければ影すら掴めない。彼が予告状を出してから対応していたのでは、今までの捜査のように動き出してから慌てふためいていたのでは、あの弾丸には絶対に追いつけない。
     ディスクをドライブにセットすると、自動で飲まれ読み込みが始まる。ドキドキと高まる緊張感に胸を締めつけられる間もなく、データは一つの答えを弾き出した。
    『No Data(該当なし)』


    →続く