「ほ、本当ですか!?」
     沈みかけていた気分が一気に上昇する。
     受け取りながら視線で確認すると、上官は開けてごらんと言いたげに小さく頷いてみせた。唾を飲んで、早まる鼓動を宥めながら震える指先で封を切る。緊張で倒れそうなのを堪えて、中に収められていた紙を引き出した。
     開いたその書面には、『辞令』の文字。

    『日本支部特務課在籍 鴉葉ミツキ
      本日付で国際特別専任捜査官への昇格を命ずる。
      捜査対象:国際指名手配犯0008223号(通称怪盗バレット)』

     通常文保局の盗難捜査と言うものは、事件が起きた現地を管轄とする支部の人間が担当する。所謂「縄張り」と呼ばれる区画であり、もしその外に犯人が逃げてしまった場合には、捜査優先権を担当支部へ譲渡するのが原則となっていた。
     地の利を活かすためにはそれが最も効率的ではあるが、支部同士の軋轢はどうしても生まれるし、引き継ぎが上手く行かないことで、犯人を取り逃がしたり何だりと言うケースも珍しくない。各国を股にかけて犯行を行う大規模な強盗団や犯罪グループ相手では後手に回ってしまう、と言うこともあり、本部が指定した国際指名手配犯には専任の捜査チームが設けられるのだ。
     バレットも勿論随分前からその指定指名手配犯ではあるのだが、単独犯であること(支援者がいるにしても犯行自体は彼単体で行われていると判断出来るため)やターゲットが博物館や美術館よりも個人財産であることなどからそこまで重要視されておらず、今まで専任捜査官がいないままだった。
     予告状が届いたと被害届が出され、実際盗まれたものだけでも被害総額は結構なものなのだが、本来所持が禁止されているものを持っている方が悪い、と言う意見も無きにしもあらずなのだ。事実ミツキだってそう感じないこともないが、だからと言って放置しておくのもまた違うだろうと思う。
     けれど、専任捜査官にはそれなりに経験を積んだ局員しかなれないものだと思っていた。いくら等々力の推薦状があったとは言え、よくも自分のような特別優秀でもない新人にその免状が貰えたものだ。
    「本当に……」
    「うん、私としても嬉しいよ。これでいろいろ申請書なしに、君は世界中どこでもバレットを追って行ける訳だ。まあ、なるべくなら早く捕まえてくれるに越したことはないがね」
    「は、はい!! 頑張ります!」
     ぎゅっと辞令書を抱き締めるようにして、ミツキは力一杯頷いた。
    「じゃあ、戻って来て早々で悪いんだが、君には明日から中華帝国のホンコンシティへ飛んで欲しい。そこで李財閥が主催する展示会が行われるそうなんだが、その目玉であるシン王朝時代の香炉『胡蝶の夢』に、バレットから予告状が届いたそうなんだ」
    「香炉……ですか?」
     差し出された写真を受け取ってみたものの、何となく意外な印象だった。
     今まで関わって来た案件がいずれも宝飾品であったせいか、どうにもミツキにとってバレットと言う怪盗は、文化的価値より美術的価値を重んじる――もっと端的に言えば、高価な獲物を好んで狙っているのだと思っていた。
     そちらの方が逃走する際にも邪魔にならないだろうし、壊れるリスクも低くなる。
     中華帝国史上最も統治期間が短い王朝であるシンは、それに反して広大な国土全域での文字や測量単位などの統一、歴史的建造物の建立など様々な文化を現代に残しており、その中で制作された香炉ともなれば、それは価値の高い品なのであろうが――
    「それにしても、これのどこに〈魔晶石〉がついてるんですか? 飾りとか何もなさそうですけど」
    「鴉葉くん、〈魔晶石〉はイコール宝飾品ではないのだよ。飾りがついている必要はない」
    「そっか……あ、解りました! 土! 〈魔晶石〉を練り込んだ土で香炉が作られてるんですね!?」
    「惜しいけど外れだ」
    「じゃあ、一体どこに……」
    「模様だよ」
     見かねたように、コーヒーを啜りながら高台寺が口を挟んで来る。
    「模様? あ」
    「気づいたか? そう、その絵の具の蒼こそが〈魔晶石〉だ。昔は岩絵の具って言って、岩石を砕いたものを溶かし込んで色づけしてたんだ。〈魔晶石〉は硬度が十段階あるが、一番柔らかい奴は、ここまで深い蒼になる」
    「へえ……不勉強でした。じゃあ、物によっては絵画なんかもあるってことですよね?」
    「まあ、そう言う種類の殆どは、いの一番に〈文化改革〉で容赦なく燃やされてしまっているけれどね。万が一官憲の目をごまかすために、他の色と混ぜて使われたりしていたら、正式に鑑定にかけない限りは解らないだろうな」
     と言うことは、もうその年代だと解ったら、片っ端から調べてみなければならないと言うことだ。バレットが〈魔晶石〉と言う共通点以外、一体どう言う基準で獲物を選んでいるのだろうと疑問に思ってはいたが、やはり結構手当たり次第なところもあるのだろう。
    「特に焼き物や絵画で注意が必要なのは、その構図や絵柄自体にも意味が込められている可能性があるってことだ。〈魔術式〉以外にも〈魔法術〉の発動条件、暴走条件がある分、扱いには絶対細心の警戒をしなきゃならない。つまり『壊すな、絶対』ってことだ」
    「は、はい。気をつけます」
     ずずい、と寄せられた高台寺の顔の迫力に押し切られる形で頷いて、ミツキはデスク脇に置いていた鞄に辞令書を大事にしまうと、等々力へ申し出た。
    「課長、今から資料室を使用してもよろしいですか?」
    「構わないよ。ちょうど誰も使ってないはずだ。総務部で鍵が借りられる」
    「ありがとうございます」
     ぺこりと頭を下げて、元気よく出て行った小さな背中が完全に扉の向こうに消えたのを見計らってから、
    「しかし、お嬢ちゃんが『国際特別専任捜査官』とはねぇ……まだ新人のぺーぺーでしょうに。上の連中は一体何を考えているんだか」
     がりがりとボールペンの尻でこめかみの辺りを掻きながら、高台寺は苦い顔をしてみせる。これでもこの後輩思いのベテランは、勢いだけは一人前の彼女を心配しているのだ。
     様々なパターンの対応を要求される特務課の仕事をこなすには、ミツキにはまだまだ圧倒的に経験値が足りない。本人はそれなりに成長出来たつもりでいるようだが、それはやはりあくまで「それなり」でしかなかった。
     文保局職員としてだけではなく、人生経験が足りないのだ。
     こちらが相手にしなければならないのは、魑魅魍魎のような犯罪者たちである。どんな手を使ってでも目的を達成させる海千山千の彼らは、勿論一筋縄では行かない輩ばかりで、誰かが泣こうと何かが犠牲になろうと、良心を痛めるような殊勝さは持ち合わせていない。例えば彼女が熱心に追いかけている怪盗バレットだって、他人を欺き騙し陥れ利用して、欲しいものは全てその掌中に収めて来た。今までは人的被害らしい被害を出してはいないものの、いつその鋭い爪牙を突き立てて来るか、解ったものではないのだ。
     そうなった時、曲がりなりにも縁あって同じ職場で机を並べている仲間が、娘ほどに歳が違うとは言え、傷つくようなところを見たくはない。
    「まあ、今流行りの『女性にも活躍の場を』とか『若手にもチャンスを』とか、下らない理由なんだろうけども、わざわざそう言う起用をしなきゃならない現状が既に終わってるってことを、彼らは早く知るべきだろうな」
    「課長は止めなかったんですか?」
    「経験は積まなきゃ育たないからね。私たちがやれるのは首を突っ込んでそのチャンスを潰すことじゃなく、彼女が倒れそうになった時に手を差し伸べることだ」
    「はあ……成程」
     確かに万年人手不足の特務課は成り手が少ないこともあり、常に存続の危機に立たされている。彼女もわざわざ物好きにここを志願して来た訳ではないのだが、それでもこの短い期間に何度も危険な目に遭いながらも、めげずに食らいついて来られたことは稀少だ。
     幾分乱暴な手段とは言え、今だけではなく後々のことも考えて部下を育てて行かねばならない管理職としては、そこら辺の機微が高台寺ともまた違うのだろう。
     若いのに等々力も大概苦労性だ。
    「一応ね、上司として僕も彼女を心配しているんだよ。ストックホルム症候群ってのは、自分じゃ気づかないものだからね」
     監禁事件や誘拐事件などで長時間犯人と密に接していると、被害者が加害者へ同情や愛着を抱くことが稀にあると言う。今のミツキはそれに非常に近しい状態であることを、この有能な上官は見逃していない。
    ――折れる前に、もっと強くなってくれりゃあいいがな……
     高台寺は短くなった煙草を灰皿の縁で揉み消し、カップの底に張りついたコーヒーを飲み干した。何となくいつもより苦い気がするのは多分、気のせいだ。


    * * *


    →続く

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