森の奥にある朽ち果てた礼拝堂には、本当に神様がいるらしい。
     ある人は昇進の願いが叶っただとか、またある人は想いを寄せていた人と結婚しただとか。普段であれば一笑に伏して、信じている輩を馬鹿にしたことだろう。でも藁にも縋りたい、噂でも何でもいいから誰かにどうにかして欲しい、なんて信じてもいない神様に祈りを捧げる以外に他なす術がない事態、と言うものが、人生一度くらいはあるようだ。
     僕の場合は、母の病気がそれだった。
     早くに父を亡くし、女手一つで僕を育ててくれた母は、どんなに苦しくとも辛くとも、僕に不自由な思いをさせまいとしてくれたのだろう。休みなく仕事をこなし、その合間に家事をこなし、お前は勉強を頑張って立派に仕官するのよ、と笑って、欠片もそんな素振りは見せずにいた。
     けれど、そんな長年の無理がたたったのか、僕の仕官先が決まると同時に、流行り病に倒れてしまったのだ。
     現在の医学では手の施しようもなく、高い薬を投与したところで、その進行を緩やかにすることしか出来ない。元々それほど裕福ではない我が家では、ましてや入ったばかりの新人仕官の給金では、充分な治療費を賄うなどとても無理な話で、僕には日に日に弱って行く母を見舞う以外に、出来ることはなかった。
    「ごめんなさいね……迷惑かけて」
    「迷惑だなんて、そんな……僕の方がたくさんかけたよ。心配しないで母さん、僕が何とかしてみせる」
     そんな折に耳にしたのが、先の噂である。
     僕は今まで、神頼みなんてものは努力不足の愚か者がやるものだと思っていた。目にも見えない、存在の証明されていない不可思議なものを信じるなんて、どうかしていると思っていた。
     けれど、世の中には努力だけではどうにもならないことが溢れている、と言う現実を突きつけられてしまった僕は、駄目元でも気休めでも、とにかく出来るだけのことをしておこう、と調べた森へ足を運んだ。
     万が一にも出向かなかったから、などと言う後悔はしたくない。
     夕暮れ時の鬱蒼とした森の中は、想定していたよりも遥かに不気味で、気持ちの悪い体を成している。人の立ち入りを拒むような独特の空気は、引き返すなら今の内だと警告しているかのようだった。
     が、ここで踵を返しては意味がない、と僕は囁く本能を無視して、細い道を辿った。
     幸いなことに、迷うほどの道ではなかったお陰で、礼拝堂にはそれほど時間をかけずに到着した。灰色の石造りのそれは、古びて倒壊寸前のような具合のせいでか、酷く陰鬱な印象を覚える。
     果たして本当に神様がこんなところにいるものだろうか? もう少しきれいでちゃんと手入れが行き届いているものではないのか?
     そういくつかの疑問が脳裏を過ったものの、僕はそこだけ木製の扉を押し開いて中へ足を踏み入れた。明かりのない室内はそれほど広くはなく、湿っぽい空気が漂っている。
     やはり人の出入りはそこそこあるものか、古い建物特有の停滞した臭いはしない。持って来たランプをつけると、ぼんやりした橙色の光の中に長椅子が三脚並んでいるのが浮かび上がる。
     そしてその正面には、大きな鏡。
     背は高い部類に入るだろう僕と、変わらないくらいの姿見が一枚掲げられている。飾り枠も縁もない、有り体に言うならどこにでもありそうな、何の変哲もない鏡だ。
     普通はこう言うところには、ご神体なり像なりが置いてあるものではないのか。それともこれがそうなのか。
     不審さは拭えなかったものの、僕は作法通りにひざまずいて印を切り、鏡に向かって祈りを捧げた。どうか母の病を治してください。そのためならどんな困難だって甘んじて受けるつもりだ、と。
     一体どのくらいそうしていただろう。
     特に何かの天啓を受けるでもなく、果たしてこれでよかったのか、と疑問に思いながら顔を上げた僕は、目の前に灰色の子供が偉そうに胡座をかいて座っているのに気づいて、情けない悲鳴を上げた。
    「何じゃ、お前がしつこく喚ぶから来てやったのに」
    「え……じゃあ、貴方が神様……?」
     気配も音もなく現れたのだから、おおよそこの世の者ではないのだろうけれど、不思議と恐ろしいとは感じなかった。
    「母の病を治したいそうだな。孝行者だ」
     言葉にしていない願いを、ずばりと言い当てられる。どうやら本物らしい、とすっかり舞い上がった僕は、勢いよく土下座した。
    「その通りです。どうか、何卒……っ!」
    「そのためならどんな困難だって甘んじて受ける……その心意気も大したものじゃ。わしでよければ力を貸してやろう」
    「あ、ありがとうございます!!」
    「ただし、母の病を治す代わりに、お前の耳は戴くぞ。何、ちぎって差し出せとは言わぬよ、聴覚だけだ。この前耳の聞こえぬ娘にやって、ストックがないからの」
     にたり、と弧を描く灰色の双眸。
     さ、と全身の血が下がったのを自覚した。
     ああ、これはきっと『神様』などではない。
    「な……代償がいるんですか!? そんなの聞いてない……」
    「嫌なら他を当たれ。帰った者も腐るほどおる。何も命を寄越せ、と言う訳でもあるまいに。口先だけの覚悟かえ?」
    「…………そんな、」
    「何も失わず手放すことなく、何かを得ようなどと虫がよすぎであろう! 願いにはその術を、結果には代価を! 世界はすべからく等しいものよ」
     一体いつその手に握られたものか、きらりと光る剣の切っ先を突きつけられて、僕は飛び上がりざま礼拝堂を飛び出した。追って来られやしないかと背後を何度も振り返りながら、無我夢中で転げるように森を出て、そのまま真っ直ぐ帰宅して、ベッドで震えながら夜を明かした。
     やはり何かに頼ろうなどと、縋ろうなどとしたことは間違いだったのだ。昨日のことは悪い夢だったのだと忘れることにしよう。
     顔を洗いに洗面所へ向かう。水の冷たさに思考もはっきりしたところで、髭でも剃るかと見遣った鏡に、自分の顔ではなく礼拝堂の灰色の子供が写っているのを見た僕は、再び大きな悲鳴を上げた。
    「な……何でここが……」
    「お前が途中で帰るからじゃ。契約途中で願いを破棄した故、お前の耳の代わりを貰う。全く神様ごっこも楽ではないの」
    「代わ……り?」
     それが何かと問う前に、彼は姿を消してしまった。何事もなかったかのように部屋を写す鏡に呆気に取られていると、今度はけたたましく電話が鳴る。全くこんな調子では、心臓がいくつあっても足りやしない。
    「はい、もしもし?」
    「こちら〇×総合病院ですが、お母様の容態が急変されて……」
     瞬間、世界中から全ての音が、消えた。


    以上、完。