ーー正義など、この場のどこにもありはしないよ。
     それがあの人の口癖だった。

     かあ、かあ、と屍肉を啄む鴉の耳障りな鳴き声を、追い払うようにわざとらしく音を立てながら歩く。喰えないならばお前に用はない、とばかりに羽音を残して距離を取りはするものの、人馴れした奴らは銃を実際に構えでもしなければ、本気でこちらを恐れたりはしない。
     そこここに転がるかつて人だったものは、無惨な姿を晒しながら茹だるような陽射しに照らされ、半ば腐りかけていた。
     胸の悪くなるような臭いと、焦げて崩れた家屋の跡、あちこちに残された血痕が、数日前に繰り広げられたのだろう惨劇の様子を伝えて来る。
     この集落に生きている者はいない。いてはならない。逃げ込んだ敵将を炙り出すために、一帯は犠牲にされたのだ。故に彼が舞い戻りはしていないかーー要は後始末を押しつけられた俺は、呼吸し動く者があれば、それが何であれ、とどめを差して仕留めなければならない。
     因果な仕事だ。
     権力者同士の争いで、屠られ命を落とすのは、いつだってこうした名もなき民たちである。骸になったとて何の記録を取られることもなく、朽ち果て失われて行く。
     確かに敵将は、圧政と暴虐さで悪名を轟かせた男だ。その責を負い、首を晒す必要はある。
     が、その途中ーー断固逃がしてはならない故とは言え、ただでさえ苦しんでいた者たちを蹂躙してまで、追うべきものなのだろうか。
     俺たちに思考は必要ない。
     命じられるまま手足を動かし、鍛練した技術を駆使して、目的を果たせばよい。
     要らぬ干渉は身を滅ぼす。
     明日も心の臓が動いているかどうかだけ、心配していればいい。
     どちらが正しいか、など、どちらも大した違いはないのだ。どの道民草は踏みつけられ、食い物にされる。上の首が誰にすげ変わろうと、身分と言う枷が檻がある限り、何も変わりはしない。
    「お前はそうやって、情を寄せるから向いていない、と言っただろう」
     ひゅんっ、と空気を切り裂いて矢が俺の頬を掠めるより迅速く、彼女の声が鼓膜を叩く。視界に蝶が舞ったのかと思うほど、艶やかにして鮮やかな衣装ーー俺の師にして、この戦国の世屈指の戦乙女だ。揚羽と言う名前とその腕以外、何も知らない人。
     繰り出されたクナイの先を辛うじて小太刀で受け止め、弾く。
     体格差や純粋な筋力差など微塵も感じさせない、鋭く重い一撃は、相変わらず躊躇の欠片もない。殺意すら乗せず、ただただ邪魔な障害物を排除するための動き。
     俺が追撃を放つ前に、師匠はひらりと翻って得物の間合いから避難している。お前のようなのろまには捕まらぬ、と舞い遊ぶ蝶の身のこなしは、相変わらず美しかった。
    「久しいの、斑。健在で何よりじゃ」
     にこりともせずにそう言う。
     何故ここに、師匠がいて、俺に刃を向けて来るのかーー理由など訊かずとも一つしかない。彼女は敵将側に雇われているのだ。
     袂を分かって、と言うよりは明日から一人で生きて行け、と彼女が俺の元を去って以降、実に数年ぶりの邂逅である。いや、今まで一度も出くわさなかったのが幸いだっただけなのだ。戦場でしか生きられぬこの人が、何の気紛れにか孤児になった俺を拾い育ててくれたのが、奇跡だっただけなのだ。
     本当はきっと、いつこうして互いに睨み合う位置で鉢合わせていても、不思議ではなかったのだろう。
    「よりにもよって貴女が相手とは……」
    「退くなら十秒待ってやる」
    「そうしたいのは山々ですよ。だが、首が飛ぶ」
    「そうじゃろうとも。ならば私にはねられた方がよかろうな。少なくとも痛くはない」
    「ご自分がはねられる方だとは?」
    「微塵も思わんな」
     大地を蹴りざま放たれるクナイ。俺が投げるよりも、やはり三呼吸ほど早い。急所に刺さりそうなものだけ弾き、踏み込むと同時小太刀を振り抜く。死角から繰り出された刃を籠手で受け、同じく手刀で弾かれた切っ先をくるりと翻す。
     その頃には既に、こちらの懐に潜り込んでいた師匠の手が胸倉を掴み、刃を繰り出す暇など与えて貰えずきれいに投げ飛ばされて、背中から地面に叩きつけられた。息が詰まり、瞬間とは言え視界が眩む。
    「ざまぁないの、斑」
    「ええ、全くだ」
     ぱたた、と地面を穿った血の滴を半ば疑うような眼差しで眺め、そうして胸から生えた切っ先を見つめ、師匠はどう、と地面にーー変わり身にした骸の上に重なるように倒れた。
     ふふ、と珍しく赤い口唇が弧を描く。笑うとひどく可愛い人だと、今更のように思い出した。
    「何故ですか? 気づいてなかった訳ではないでしょうに」
    「ああ……だが、斬られるならお前がいい」
     じわじわと師匠の命の水が地面に広がり、染み込んで行く。やはり、苦しませずに一撃で仕留めるべきだった。
    「…………あの男は」
     今にも消え入りそうな細い息で、まるで寝言のように睦言のように紡がれる、言葉。
    「かつての仇じゃ。向こうは覚えておらなんだが……お前がそちらについたなら、従う理由もない」
    「…………師匠」
    「いいか、斑。この場に正義など、ないよ……だから早う退け。優しいお前は向いてない」
     血塗れの手が、俺の頬をなぞり優しく撫でる。
    「これで……ようやっと、悪い夢から覚めるかの」
     糸の切れた人形のように落ちた手を取り、その甲にゆっくりと接吻を落とした。たくさんの命を奪い、屠り、摘み取って、とどめを差して来た師匠の手。細い指ながら傷痕だらけで硬くて、おおよそ女のものとは言い難い戦乙女の手。
     後悔していただろうか。
     懺悔したいのだろうか。
     否、きっと貴女ならにこりともせずこう言うだろう。
    「生きるために、殺せ」
     死ぬ理由が出来たから、貴女は俺の元を去ったのだろう。或いは今日この場で俺と逢わずとも、いずれ交わした契約が終わればその男の首を手土産に、別の主に仕えるつもりであったのか。
    「……本当、因果な仕事だ」
     ゆっくりと師匠の身体を抱え上げ、俺はそのまま目指す方角へと再び歩き出した。主の安い野望を覚ますため、ではなく貴女の悪夢を覚ますため。
     いや、本当は貴女のこれから逝く道を拓くがために。


    以上、完。