長生きをしたいなら人間分相応に生きることだ、と言っていたのは誰だっただろう? 高望みをせず与えられた職務を忠実に淡々とこなし、一日の終わりの晩酌を楽しみにするような身の丈にあった生活を送る。
     もしもそれ以上を望んで許容範囲の限界を超えてしまったら、待っているものは破滅だ。
     少なくとも、それで身を滅ぼした人間を知る者としては、退屈であろうと平凡であろうと目立たず騒がず凡百に埋もれている方がどれほど楽であるかと言うことを、ここに強く主張したい。
     昔からよく言うじゃないか――『出る杭は打たれる』。
     つまりはまあ、そう言うことだ。
     そして、その杭を打つのが俺の仕事。要はオジキ(の商売)に取って邪魔になる物事をちょちょいと始末する汚れ役だ。
     3K必至の損な立ち位置。
     キツい。危険。汚い。
     まあ、それに見合う報酬は貰ってるから文句は言えないけど。でも、殺し屋なんて職業他人にお勧めはしないね。
     その日は昼前にオジキから電話が入って、事務所に呼び出しを食らった。面倒くさいったらない。仕事の連絡ならメールで事足りるのに、今時ケータイの一つも使えないのかねあのジジイ。年寄りはデジタルを信用しないのが悪いとこだ。
     通された部屋には組織の幹部連中がぞろりと雁首を揃えていた。何々、俺説教されるようなヘマをしたっけ? 記憶にない。
    「わざわざ足を運ばせて悪かったな、シン」
     正面に座ったオジキはあまり機嫌がよさそうではない。室内に漂う不穏極まりないピリピリした空気と言い、今回の件は只事ではなさそうだ。
     やっぱり雨の日ってやつは全くロクでもない。クセの強い髪は爆発コントのように好き勝手気ままに暴走するし、いつ負ったか定かでないような古傷もいつまでも当時を引きずるように女々しくシクシクと痛む。濡れるし、傘を差すのは面倒だし、何より厄介事に巻き込まれる。
     出来ることなら朝っぱらから酒でも飲んで毛布に包まっていたいもんだが、人生とは往々にして上手く行かないものだ。
     こりゃあいよいよどこかと戦争でもするんだろうか。
    「別に、それは構いませんけど……俺こう言うやり取り苦手だから、話は全部リョウさん通してくれって言……」
    「そのリョウがウチのネタを九島会【くとうかい】に売ってやがったんだよ」
     苦々しく吐き捨てられた言葉を脳みそが理解するまで数秒が必要だった。
     このジジイは何を言ってやがるんだろう? 呆けたのか? 耄碌したのか? 頭は人並みに悪くないつもりでいたのに、紡がれた台詞が表面を滑って俺の中をすり抜けたような気がした。
     いや、本当はただそれが真実だろうと悪質な噂だろうと理解したくなかっただけなんだろう。
     リョウさんが青悠会【せいゆうかい】の情報を売っていた――しかもシマの境界線を巡って敵対関係にある、商売仇の九島会に?
     ただですら、裏切り者の粛正には一切の容赦をしない厳格さを誇るオジキのことだ。腹心として信頼厚く数年もの間苦楽を共にしたリョウさんが裏切ったとあっては、可愛さ余って何とやら情状酌量など微塵も許さないに違いない。
    「それで、俺に……始末しろってのが今回の仕事っすか?」
    「そうだ……残念ながら手練れの奴とタメを張れるのは、その技術の全てを教わったお前しかいねえ。まさか『師匠で相方だから出来ません』なんてガキみてえに甘ったれたこたぁ言うめぇな?」
     じろりとこちらを睥睨するオジキの威圧感は凄まじい。そりゃそうだ、リョウさんが裏切ったならその片腕として誰より近くにいた俺は、一緒に寝返っていても何の不思議もない。言外に込められた身の潔白を問う言葉は踏絵にも似ていた。
     お前は裏切り者か否か。
     俺は溜息をついて後ろ頭をばりばりと掻くと肩を竦めた。
    「まさか。例え親だろうが恋人だろうが師匠だろうが、命令されたら誰だって殺しますよ。それが俺の仕事っすから」
     眉一つ動かさずにいつもと同じ表情でそう告げた俺に、オジキの傍らで若頭が胸糞悪いものでも見たように顔をしかめたが、当のジジイは満足そうに小さく頷いた。
    「そいつぁ頼もしい限りだ」
    「……そう言う風に、あの人に育てられましたから」


    * * *


    「ん」
     無造作に差し出された煙草に訝しさを込めた視線を返すと、逆に不思議そうな顔をされた。
    「何だよ、お前煙草吸わねえの? 人生の半分損してるな」
     一本をくわえて安っぽいライターで火をつけると、リョウさんはつまらなさそうな表情で紫煙をふかしながら残りを内ポケットに突っ込んだ。
    「吸わないっすね。殺し屋は、己の存在の記憶を喚起させるようなものを纏うなって教えられましたから。匂い然り、足音然り、気配然り」
     弾丸を込めた弾装をかしゃんとセットし直しながら答えると、呆れたような溜息が返された。
     心外だ。
     俺は別に殺しの技術を叩き込んでくれたあの変態サド野郎の言葉が全て正しいなんて思っちゃいなかったものの、こうまであからさまに『この世間知らずのお坊ちゃんめ』と言いた気な顔をされると反論の一つも投げたくなる。
    「目ぇつけられていいことなんかないでしょ?」
    「俺は」
     深く紫煙を吸い込んでたっぷりその味を楽しんでから、惜しむようにゆるゆると吐き出す。それがこの人特有の煙草の味わい方なのだ。
    「匂いも足音も気配もしない奴が近付いて来たら、間違いなく殺し屋だと思って警戒するがね。普通に生活してたらそのどれもがない人間なんて、どう考えても普通じゃないよ」
    「………………」
     遠くから姿を見せることなく標的を狙うばかりが殺し屋の仕事ではない。
     どちらかと言えば、その懐深くに潜り込んで有益なネタを吸い上げた後で組織や計画ごとそいつを潰すことを求められるものだ。
     成程、その際に一切の痕跡を残さないようにと配慮すればするほど組織の中では浮いて目立ってしまうものなのかもしれない。警戒している人間の隙を作るには、まずこちらが隙を見せて油断を誘うのが常套手段と言うものだろう。
     俺は少し考えた挙げ句、リョウさんに向かって手を差し出した。
    「やっぱ一本下さい」
    「吸い方知ってんのかよ」
    「それくらいは知ってます」
     ニヤニヤと明らかに揶揄する気満々の顔でリョウさんはポケットからマルボロを取り出した。残り少ない赤いソフトパッケージはひしゃげて変形していたけれど気にはならなかった。
     差し出されたライターに先端を掲げて火を灯す。途端に少し甘い匂いが鼻先をくすぐり、ちりちりと葉が消費されて灰になって行く音が鼓膜を叩いた。俺たちも標的もこの煙草と同じだ。消費され、やがていつかは灰に還るためだけに生きている。
     特別旨いとは感じなかったが、不思議と気持ちは落ち着いた。どうやら自覚はなかったが、これでも緊張からか神経が高ぶっていたらしい。
    「お前さぁ……もうちっと旨そうに吸えよ」
     リョウさんはそう言いながら顔をしかめたものの、どことなく嬉しそうな声をしていたように記憶している。
     その日、俺は初めて実践として仕事として人を殺した。標的は組織のクスリを横流ししていた自分の両親だった。


    * * *


     こうしてリョウさんに教えられて煙草の味を覚えた俺は、仕事の度にマルボロを吸った。
     相変わらず旨いと思ったことはただの一度もなかったが、紫煙に包まれると例えその場にいなくてもリョウさんが見守ってくれているような気がして、どんなに難しい任務だろうがどんなにヤバい場面だろうが思考回路を冷静に保つことが出来たのだ。
     それは狙うべき標的がリョウさんになろうと変わることはない。
     昨夜からざあざあと降っていた雨は午前中には上がった。
     俺はオジキに教えられた通り、偽の仕事を与えられ見張りについているリョウさんへ差し入れを持って行った。彼が監視を命じられた標的は何の嫌疑もかかっていない新人の構成員だ。
     最初からリョウさんを始末するためだけに仕組まれた――罠。
    「お疲れ様っす。どうっすか、標的の様子は?」
    「特に動きはないな……全く、今頃俺まで現場に引っ張り出すなんてオジキも人使いが荒いったらないぜ……」
    「はい、これでも食ってちょっと休憩して下さい」
    「ああ、そう? 悪いね、シン」
     リョウさんは何を警戒することもなく――少なくともそんな素振りを見せることなく、俺が差し出した飯を受け取った。が、いつものように先に一服するつもりなのか、すぐには食べず煙草をくわえてライターで火をつける。
    「いや、オッさ……ゴホン、先輩には優しくしとかないと。飲みに行った時奢って貰えなくなったら困るんで。でもマジ何なんすかね? リョウさんもう現場出ねえんだと思ってた」
    「誰がオッさんだ! 本っ当早く引退してさぁ、南の島かどっかでキレーなオネーチャンときゃっきゃうふふな毎日を過ごしたいもんだよ」
     長々と紫煙と共に溜息がこぼされた。リョウさんはまだこちらに背を向けたままだ。
     空は再び今にも泣き出しそうなほど重たい鈍色の雲を抱えている。
     俺は懐から消音器付きの銃を取り出しながら、いつも通りの声で答えた。
    「キレーなオネーチャンがいるかどうかは保証しませんけど、あと俺がやっとくんでリョウさんは休んでて貰っていいっすよ」
     バスン! と空気を穿つ間の抜けた音。
     けれど、リョウさんは鮮血をまき散らしてコンクリートの床に倒れ込んだりはしなかった。こちらがほんの僅かに滲ませた殺意ではなく殺気を感じ取り、咄嗟に掌底で銃身を振り払って軌道を変えたのだ。
     全くこの人の動物的勘とやらだけには敵う気がしない。
    「シン、お前何のつもりだ?」
     そう問う割にリョウさんの目に疑問はない。来たるべき時が来た――そんな覚悟を決めた眼差しだった。
    「言ったでしょ? 俺が変わりますよ。あとは全部任せてください」
    「オジキの差し金か?」
    「他に心当たりでも?」
    「正直ありすぎて困ってる」
    「モテる男は辛いっすね。優しくしますんで、あんまり動かないで下さい。痛いの、嫌でしょ?」
    「大した自信だ……だが生憎と俺ぁ受け身は苦手でね」
     煙草をぷっと吹き捨てて自然に立ち上がり、踏み込む。
     まるで呼吸するようにするりと当たり前のようにリョウさんは俺の懐に入って来た。無造作に振るわれる腕。その手にはいつの間にやら小振りなナイフが握られている。
     人間をただ殺すだけなら大仰な刃はいらない。無駄なことをすればそれだけ特徴が残る。特徴が残れば辿られやすくなる。シンプルかつスマートに――大雑把でいい加減そうに見えて、リョウさんは実に合理的思考と行動の持ち主だ。紙一重で初撃を躱す。が、
     ひゅん……っ、
     空気を切り裂いた切っ先が掌中で翻り牙を剥く。正確に延髄を狙って突き下ろされるこれは、突きつけていた銃を引き戻して弾かざるを得ない。
     そのがら空きになった胴に死角から繰り出された蹴りは鋭かった。体格差から生じる重い攻撃を受けてダメージを蓄積するのは賢い選択とは言えないが、同じ方向に飛ぶことでどうにか衝撃を最小限に留める。
     床の上を転がって距離を取りつつ引き金を引いたが、崩れた体勢からの一撃はナイフを弾き飛ばしただけで終わった。
     チ……ッ、右手ごと持って行くつもりだったのに。
     リョウさんは構わずに突っ込んで来て照準を合わせる暇を与えてくれなかった。その気迫に思わず押されて放った一発はその頬を掠めただけに終わった。叩き込まれる拳と針を寸手で受け流して、一撃の重量をイーブンにすべく銃を握ったまま横殴りにこめかみを狙う。確実に決まったはずなのにその身体は僅か傾いだだけで倒れない。
     脳震盪一つ起こさないなんてどんだけ頑丈な身体してんだよ。間近で獣の獰猛な瞳がにいと楽しげな笑みを浮かべる。
     胸倉とっ捕まった俺は、そのまま容赦なく背中からコンクリートに叩きつけられた。息が詰まったが、両方の頸動脈をしっかと押さえられているせいで苦鳴も溢せない。
     やっぱり未だかつて一度も勝てた試しのない近接戦闘をしかけるべきじゃなかった。それでも俺は――どうしてもリョウさんに確かめたいことがあったのだ。
     ギリギリと締め上げられ、耐え切れず手から銃がこぼれ落ちる。すかさずそれを遠くへ蹴飛ばしてリョウさんは俺を見下ろした。その手には先程の針が握られている。
    「悪いな、シン……」
     が、それが俺の首に突き立てられるより俺が腰の銃の引き金を引く方が一瞬早い。消音器をつけていないこちらの黒星は一発撃ったらイカレちまう安物だ。それでもこの至近距離なら外しようがない。
    「…………参ったね」
     ごほ、と噎せたリョウさんの口から溢れた血が俺の上に降り注ぐ。俺は大事な人の血を顔に浴びながら続けざまに引き金を引いた。着弾の衝撃を受ける度一回り大きな体躯が軋む。
    「まさか……まだ、得物を隠してたとは……」
    「仕事の時は必ず複数の得物を持てって言ったのはアンタでしょ」
    「ああ……全く、お前は優秀過ぎて……俺が教えること、なんざ……もう残ってねえ、な」
    「リョウさんこそ相変わらず化け物みたいに強いっすね……アンタだけっすよ、俺をここまで手こずらせて好き放題ぶん殴るの。しかも、見えてないでしょ?」
    「…………」
    「やっぱり……いつからっすか、その目」
    「お前にゃ隠し事は出来ねえなぁ」
     はは、と力なく笑いながら、リョウさんは辛うじて身体を起こすと壁に背中を預けてもたれかかった。その僅かな身動ぎの間にも、胸に開いた穴からはぼたぼたと鮮血がこぼれ落ちて行く。
    「お前に……仕事を任せ始めてすぐだ。はっきりした原因は不明……まあ、いろいろ無茶して来たツケってやつだろうな」
     リョウさんのことを気に入っていたオジキは、真実を知ったら殺し屋として使えなくなっても組織の内に囲ってその運営を任せようとしたかもしれない。けれどリョウさんはその道を自ら捨てた。飼われて安穏と生きるより最期まで殺し屋であることを選んだ。
     売った情報は大したものじゃない。
     それでも自分が裏切れば、オジキは確実性と忠誠心を試すために間違いなく俺を動かして来ると踏んで、こんな真似をしたんだろう。恐らくは他の誰でもない俺に粛正されることを望んで。
    「俺にこんなことを頼むなんて……アンタは本当に酷い男っすね」
    「知らなかったのか? そりゃ随分と信頼されてたもんだ」
     震える手をジャケットの内ポケットに突っ込んで、リョウさんはいつものように煙草を取り出した。
     指が血塗れなせいで滑るのか、何度も取り落としそうになりながら余計真っ赤になったマルボロのパッケージから一本をくわえて取り出す。こぼれる呼吸は途切れがちになり、顔色はどんどん土気色に染まって行った。辛そうだ。 
     何故――いつもみたいに容赦なく一発で仕留めなかった? 何故わざと苦しめるように即死させなかった? 置いて行かれる恨みだとでも言うのか。俺にこんな真似をさせるリョウさんへの細やかな反抗を示したつもりか。
     どちらにしろ彼は死ぬのに。
    「シン、火を……貸してくれないか?」
     こちらを見遣る――ただそれだけの単純な動作も酷く億劫そうで、まるで油の切れたロボットのように緩慢なその仕草を目にして、俺は堪らない気持ちになった。
     口から止め処もなく溢れ出る血がその最期を告げていることよりも、光を失った切れ長の双眸にはもう俺が映らないことが胸の張り裂けそうなほど辛かった。
     リョウさんにとって、最後の俺の姿はどんなだったのだろう?
    「…………はい」
     頷いて真似て使っている安っぽいライターの先を差し出すと、リョウさんは慣れた仕草でそれを受けてくわえた煙草に火を灯した。数度軽くふかした紫煙が風に溶け、視界を薄白く染める。鼻先をくすぐる馴染み深いマルボロの匂い。
     俺も同じように一本をくわえて火をつける。
     二本の紫煙がまるで弔いの送り火のように、今にも泣き出しそうな曇天に立ち上って行った。
    「あー……」
     深々と肺腑の奥まで吸い込んでその旨さを味わい、満足そうな吐息と共に名残を吐き出す。いつもと同じリョウさん特有の吸い方。
    「旨ェ……」
    「……そうっすか」
     けれど最初に一口吸ったっきり、リョウさんは煙草をくわえたままぴくりとも動こうとはしなかった。
     チリチリと迫る小さな火種が無駄に煙草を消費して灰にして行こうと、身動ぎ一つせずに薄汚い灰色の空を見上げていた。
    「………………」
     やがて自らの重さに耐え切れず、ほろりと灰が地面に落ちる。
    「おやすみ、リョウさん」
     役目を終えたものはただあるべき場所へあるべき姿で還るだけだ。
     灰は灰に。
     ガラクタはガラクタに。
     俺は懐からまだ開けて間もないマルボロを取り出すと、リョウさんの傍らに置いて踵を返した。いつか俺が灰に還る時、こいつが旨いと言えるようになるのだろうか、とどうでもいい疑問を抱えながら。



    以上、完。