タタン、タタ……ンっ……
     規則正しく刻まれる、車輪がレールを滑り枕木を食む音。小刻みに身体を揺らす振動も、背後から差し込む橙色の暖かな西日も、心地いい眠気を連れて来る。
     古びて少し毛羽立った長いソファーには、向かいの席も含めて他の誰も乗ってはいない。隣の車輌にも、そのまた隣の車輌にも。時折緩いカーブに合わせて、吊革だけが揺れている。
     当然だ。
     誰もがちゃんと途中の駅で降りるからだ。
     やり過ごして、いつまでも頑なに乗り続けているのは私だけである。他の乗客など見た記憶はなかったが、何故か痛烈にそう感じた。
     窓の外の景色は、磨りガラスが嵌め込まれている訳でもないのに杳として知れない。ぼんやりと焦点が合わず、目を凝らしても輪郭が捉えられないのだ。
     けれどどうにも、記憶にある見知った路線ではない気がする。通学に使う馴染みの電車は、もっとせせこましくてごみごみした都会の中を走るはずだ。
    ーー私は何でこの電車に乗ってるんだっけ……? どこへ行こうとしてたんだっけ?
     思い出せない。
     何かとても大切なことのはずなのに、頭の中まで靄がかかったようにぼんやりして、思い出そうとすることも考えようとすることも酷く億劫だった。
     そうしている間に、一つ駅を通り過ぎたようだった。
     駅名の書いた看板だけがやけにはっきりと視界を過るーー『高校卒業』。
     ふと傍らに気配を感じて視線を上げると、車掌らしき男が立っていた。紺地の制服に金のボタン。そんな細部は目に留まるのに、やはり彼の顔も解らない。
    「降りるなら、まだ切符ありますよ」
     穏やかな低音を片手ではね除ける。
    「要りません。私は『終着駅』まで乗りますから」
    「……そうですか。それはまた随分と、いろんな駅を飛び越えて行きなさる」
     どうしてそんな思っても見ない台詞が口から飛び出してしまうのか。行き先などたった今まで持っていなかったはずなのに。
    「でも、お友達から連絡来てますよ」
     指差されたスマフォの画面を見やれば、SNSのタイムラインには親友から『今どこ!?』のメッセージ。
    「心配されていらっしゃるようですよ」
    「……そうかしら」
    「でなければ、わざわざ連絡なんて寄越さないでしょう? 人はどうでもいいもののために動いたりしません」
    「でも私眠いのよ。とても疲れてるの」
    「そうでしょうとも」
    「……私が乗ってると迷惑なの?」
     一向に立ち去る気配のない車掌に焦れてそう問えば、彼は軽く肩を竦めた。
    「とんでもない。どのみち誰が乗っていようと乗っていまいと、私たちはこの電車を走らせなければなりませんから。ただ」
     白い手袋の指が今度は私の隣に置いた通学鞄を示す。
    「そんなにたくさんの荷物を持って『終着駅』に向かうのは感心しません」
     タタン、タタ……ンっ……
     誰も乗っていない電車。
     夕暮れの目に痛いほどの橙色が、胸の奥の柔らかな部分を切なくチクリと刺す。
     何もないと思っていたのに。
     何も持っていないと思っていたのに。
     私は本当はこんなにも平凡な日常を愛している。
    「いずれ望まなくても誰もが行かねばならない駅です。どうせならたくさん回り道して、たくさん途中下車していろいろ楽しんだ方がお得ですよ」
    「……楽しいことばかりじゃなくても?」
    「楽しいことしかなかったら、それは楽しいことじゃなくて当たり前のことでしょう? 甘いものばかりだと飽きて辛いものやしょっぱいものも欲しくなる。それと同じです」
     途端、どこからともなくいい匂いが漂って来た。母が作るカレーの匂いだ。他所の家庭と材料は大して違わない、独自のスパイスを使っている訳でもないそれは、けれど間違いなく母のカレーの匂いだった。
     それまで忘れていたはずの空腹をお腹の虫が訴える。
     思わず赤面したものの、車掌は笑うでもなく私に一枚の切符を差し出した。その表面には『続きから始める』なんてゲームのセーブ画面のような文字。
    「これ、お一人に一枚しか渡せませんから。次はもう駅でしか止まれませんよ」
    「…………はい」
     電車の速度が落ち、やがてゆっくりと停車する。
     気がつけば私は、いつもの通学に使う駅のホームに立っていた。
     遠く踏み切りの警告音が響く。電車が滑り込んで来てたくさんの人を吐き出し、また別の人を吸い込んで走り出す。私もその流れに乗りながら、今日もこうして漂い生きていく。
     いつもの町。いつもの電車。いつもの毎日。
     何となく今日の夕飯はカレーのような気がした。大好きなものを食べられなくなるのは悲しい。ただそれだけで、明日も大丈夫な気がした。
     もう乗ることはないだろう電車の、顔も解らない車掌のことを少し思い出しながら、私は親友に返事を打つべくスマフォを取り出した。


    以上、完。