子供の頃から燃えるような夕焼け空が好きだった。太陽が溶けて鮮やかな茜色が滲み、ようよう青みを帯びて闇色に染まって行く様を眺めているのが。そのこの世のものとは思えない不思議な色彩階調の変化は、ささくれだった心をいつも穏やかにしてくれる。
     カタタン……カタタン……っ、
     規則正しく刻まれる枕木の音を何とはなしに聞きながら、僕はいつものように自宅の最寄り駅を通り過ぎ、終点までずっと窓の外を眺めていた。今日は日直の仕事が押したから、いつもより二本も遅い電車に乗るはめになった。時間はぎりぎりだ。まだ間に合うだろうか。
     『ど』がつくほど田舎の駅の無人改札を通り抜けると、僕は迷わずそのまま駅舎の脇の林へ足を向ける。ほんの何駅か離れただけなのに、この辺りは濃い土の匂いに満ちていた。家の近所とも学校周辺ともまるで違う、日常の中の非日常。
     駆け足気味に奥へ向かうと、小さな道祖神が奉られた祠がある。雨風に晒されているのに、誰も手入れしてくれないのか随分とおんぼろで、僕はついに萎れてしまったタンポポを引っこ抜くと代わりに傍らのレンゲを供えておいた。
     一応手を合わせてからその前を通り過ぎると、途端に空気と景色が一変する。
     夕暮れ刻は逢う魔が刻。
     辻にて行き交う彼は誰ぞ。
     相手の顔のよく見えない、灯りの乏しい時代において、道で擦れ違う相手は魑魅魍魎の類いではあるまいか? あるいは野盗か人斬りではあるまいか? 恐れた人々の気持ちは、こんな場所に立たされるとよく解る。
     寄る辺もない。立つ腕もない。
     人気のない道を歩く危険度は、文明が発達したはずの現代でも大差はない気がする。
     だって僕はここで会う彼が、本当は何者なのか知らない。知ったところで、多分意味などない。例え本当はヒトじゃないと言われたところで、何となく納得する自分がいるのも確かだし、それ以上にここに来ることをやめはしないだろう。
     明確な区切り仕切りはなくとも、ここはヒトの領域ではないーーそんな場所は確かに存在するのだ。
     一応はコンクリートだった地面は土と草と枝葉に変わり、凛と冴えた気配に知らず背筋が伸びる。少し歩けば目の前には大きな湖が広がっており、彼はいつも通りその縁に腰かけて既に仕事をしているようだった。凪いだ水面は相変わらず底知れない深緑を湛えており、今は僅かな夕陽を受けてきらきらと賑やかな光を放っている。
    「おや、今日は遅かったんだね」
     僕の足音が聞こえたものか、彼は振り向きもせずにそう言った。
    「あー、うん。日直……当番の仕事があってね」
    「成程。いろいろと面倒なのだな」
    「もう終わっちゃった?」
    「最後の締めがこれから、と言うところさ」
     目深に被った帽子の下で、彼は自信ありげに笑ったらしかった。
     そう言えば、ここに通うようになってもう随分になるけれど、僕は彼の顔をちゃんと見たことがない。いつも俯いて僕の方を見ようとはしないし、僕は僕で彼の手元ばかりを見ているからだ。
     ともあれ、彼は僕の思惑など意にも介さず、いつも通りに鞄から闇色の絵の具を取り出してゆっくりとパレットの上に広げた。つん、と独特の油の匂いが鼻を刺す。どうにもこれだけは慣れそうにない。
    「今夜は夜半から雨が降る。桜はもうすぐ終わりだね」
    「もう少し先じゃ駄目なの? 近所の子、今度入学式があるんだ」
    「さあ……どうかな。決めるのは私の仕事ではないからね」
     たっぷりと溶いた絵の具を筆に乗せると、彼は遥か先の稜線を見据えたまま先を走らせて行く。そこにはキャンバスもスケッチブックもありはしない。
     日が沈み、空はゆっくりと溶け出した絵の具を滲ませ孕みながら、美しいグラデーションを描いて行く。いつもより暗い色合いなのは、やがて来る雨雲の予兆だろう。そんな緻密で繊細な表現を、時に大胆に時に丁寧に紡ぎ、描いて、満足の行く出来に仕上がったのか、彼は深く息を吐きながら筆を置いた。今度は極細の先端で一番星を一つ。
    「さて……これ以上遅くなると、さすがに親御さんが心配するのではないかな?」
    「…………そうだね」
     促されて立ち上がる。
     彼の仕事の成果は如実に表れ、既に辺りは薄闇に沈んでいた。先程までははっきり見えていたその姿も、瞬きするほどのほんの僅かな間に、滲んだように曖昧で夢か現実かその境界も怪しいほどだ。
    「僕にも」
     いつもならまた明日、と素直に踵を返すところで声を上げたのが珍しかったのか、彼はつられたように顔を上げた。何と言うことはない、普通の凡庸な男の顔だ。それに安堵し、いや失望し、とにかくいろいろな想いが胸を駆け巡ったものの、僕は彼に問いたくて仕方なかった言葉を口にした。
    「僕にも……描けるかな?」
     スランプから抜け出たいがために、藁をも掴むような気分だった。
     思えばあの日、描きたい理想そのもののような空を目にして、その裾を追って辿り着いたここに彼がいたことは、奇跡と呼ぶしかない出来事だったのではあるまいか。
     彼はゆっくりと自分の作品に目をやり、僕の方へ向き直ってから笑った。
    「君が描きたいなら」
    「…………」
    「私は確かに仕事で空を描いているがね……晴れた空も嵐の夜もみんなみんな等しく好きなのさ。だから、明日はどんな風になるだろうっていつも考えてる。昨日も今日も晴れと言う注文でも、同じものは二度と描けない」
     だから君も、たくさん描けばいい。
     そう静かな声で告げられて、今まで凝り固まっていた心が溶け出して行くようだった。
     ぺこり、と頭を下げて駅へ向かう。
    「明日もまた来ます!」
     そう告げると、彼は振り向くことなく片手を上げて答えてくれた。百枚、千枚、彼は今まで一体どのくらいああして夜の帳を描いて来たのだろう? あんなに言葉を失うほど美しいものが描けるようになるまで、一体何度失敗しただろう?
     穏やかな湖面を思わせる声ははっきりと記憶しているのに、何故か先程見たはずの彼の顔は既に思い出せなくなっていた。

     あれから僕は彼に会っていない。
     終点駅で降りても林なんてなかったし、道祖神も湖も誰も知らないようだった。
     それはもう来るな、と言う彼なりの優しさなのか、あとは自分で頑張れと言う厳しさなのか解らない。けれど、僕は再び筆を手に取るようになった。描かずにいた間に随分下手くそになっていたけれど、誰かに何かを言われることへの恐れはなくなった。
     夕暮れ刻は逢う魔が刻。
     辻にて行き交う彼は誰ぞ。
     今日も空は相変わらず綺麗な色彩階調の変化。
     それは彼が、どこかで変わらず筆を取っていることの証だろう。
     だからいつか自分で誇れるような絵が描けたなら、それを持って会いに行こうと思うのだ。


    以上、完。