昔むかし、あるところに今にも滅びてしまいそうな世界が一つありました。
     かつて青く澄み渡っていたはずの空は黒い毒の雲に覆われ、豊かに作物を育んでいたはずの大地は腐り渇れ果て、美しかった海も山も、いつしか人が足を踏み入れることの出来ない恐ろしい場所へ変わってしまったのです。
     鳥や動物たちに代わって、異貌の魑魅魍魎が蔓延るようになった世界はとても危険で、毎日たくさんの争いで溢れていました。
     ある日、王様が言いました。
    「きっと世界のどこかに魔王がいるに違いない。奴を見つけ出し倒した者には、たくさんの褒美を与える!」
     それを聞いて多くの勇敢な者が、あるいは名誉や褒美につられた者が、仲間を募って魔王を探す旅に出ました。しかし、その多くが道半ばで命を落とし、二度と帰って来ませんでした。
     そうして、何年も何年も長い月日が経ち、いよいよ人が住める場所は限られ、世界の滅亡は避けられまい、と誰もが諦め絶望していた時です。
     一人の勇者がついに魔王を見つけ出し、激しい戦いの末倒すことに成功しました。
     伝説の剣をその胸に突き立てられた魔王は、地下深くで永遠の眠りに就きました。
     たちまち空は元の青さを取り戻し、大地には様々な植物が芽吹いて咲き乱れ、海も山もかつての美しさが甦りました。人々を脅かす魑魅魍魎は消え去り、世界は再び平和で満たされるようになりましたーー

    * * *

     この話は誰もが知っている昔話、おとぎ話。子供の頃に、一度は聞いたことのある物語。
     古くから伝わる物語と言うものは、教訓を含ませるため、あるいは政治的な意味合いで、あるいは真実を皮肉る隠喩として、口から口へと伝わる内に、歪められ形を変える。
     めでたしめでたしの部分は創作で、悪者が懲らしめられたりハッピーエンドの結末は、全く逆であることも珍しくはない。
     けれど真実が何であろうと、物語が歪められていようといまいと、誰も本当の話を知らなくたって、別に困りはしないだろう。それどころか、信じていた正義や希望が偽りだった、と知った者の多くが、その価値観を投げ出してしまうことの方が問題だ。無関心でいられるのは、あくまでもそれらが己とは縁遠い、どこかの誰かの物語だからである。
     しかし、果たしてそれが自分の身に降りかかった出来事であったとするならば、どれだけの人間が聞く耳など持って貰えないことを承知の上で、声を上げるだろうか。真実を説こうとするだろうか。
     何故ならそれは、何の滞りもなく問題もなく円滑に回っている世界を引っくり返すに等しい。世界の平和を壊す行為に等しい。
    ーーだからこそ、あの時誰もが彼女の犠牲に目を瞑った……
     地下深くへの道を辿りながら、彼は過去へと想いを馳せる。
     日の光など当に届かない。ランプの炎よりも確かな、己の魔力で足元を照らしながら、暗い奈落へ降りて行く。渇いた剥き出しの岩肌が幾層も重なり合い、徐々に生命の気配が薄くなって行く。
     地上の繁栄が、生命の営みが、如何に虚構で砂上の楼閣であるかを知らしめんとするかのように。
     やがて、この世界の最奥ーー底の底に辿り着いた彼はようやくその足を止めた。この地を踏み締めるのは、一体いつぶりであろうか。幾星霜年月を経ていようとも、何もない光景はーーこのどうしようもなく孤独な景色は何一つ変わってはいなかった。
    「久し振りだな……と、言う権利が今の俺にあるかどうかは解らないが」
     彼は台座を見つめながら、そう独りごちた。
    「君を……迎えに来た」
     そこに優雅に腰かけているのは、一人の少女だった。背中まである亜麻色の髪、透き通るような白い肌、長い睫毛、薔薇色の口唇。記憶にある姿そのままの、魔王と呼ばれる存在。
     その胸に刺さった長剣が彼女を台座に縫い止め、数多の木の根がその手足に身体に絡んで、緩やかに光を放っている。
     これはこの世界のど真ん中に聳える世界樹の根だ。
     あの日以降、枯れることのない彼女の魔力を吸い上げ続け、世界を平和に回しているあの憎き大樹の鎖だ。
    『私しかいないなら』
     今でも夢に見る彼女の最後の笑み。
    『それが一番いいでしょう?』
     彼女はかつて、勇者であった彼と魔王を倒すべく旅をしていた魔法使いだ。
     世界のあちこちを巡る内に、たくさんの仲間が出来た。そしてその殆んどが志半ばで斃れ、夢を希望を彼らに託して果てた。だから、どんなに辛くとも苦しくとも悲しくとも、二人は決して諦めずに世界に平和を取り戻さんと挫けなかった。独りだったなら投げ出しただろう重い使命を、背負い続けた。
     けれど、どんなに探し回っても魔王などどこにもいなかった。
     美しい自然を汚し、他の生物が異貌に変化を遂げるほどこの世界を壊していたのは、他でもない人間自身だったのだ。
     崩壊は免れないーー奈落でその事実を知り、死にかけた世界樹を前にして、二人は初めて絶望した。
     ただ一つ、残された方法は彼女の魔力で世界樹を回復させ、守り続けることだった。けれど、それは同時に彼女のヒトとしての死を意味し、世界を構築するシステムに組み込まれた《もの》に成り果てることを意味していた。
    『何で君が犠牲にならなきゃいけないんだ!?』
     覚悟を決めた彼女を前にして、それでも彼は悪足掻きの言葉を口にした。黙って秘して等しく終わりを待つ結末だってーー選ぼうと思えば選べたのだ。
     世界か、彼女か。
     どちらか一つ、選べるのは救えるのは片方だけ。否、彼女を選んだ瞬間に、この世界は終わる。選びたくとも決して選んでは望んではならない答え。どちらに転んでも彼女の死は免れない。
     それでも苦楽を共にし、誰よりも大切な彼女に向かって「犠牲になれ」とは言えなかった。
     だから、臆病な自分に代わって彼女がさっさと決めたのだろう。最善の選択をしたのだろう。それは決して最高の選択ではなかったが。
    『私の代わりに世界を愛して』
     託された願いを放り出すことなど出来るはずがない。たくさんの祈りを捨て去ることなど出来るはずがない。
     何よりも彼女の意思に背けずに、彼は泣きながら切っ先をその胸に突き立てて世界を守った。
     勇者と呼ばれることがこんなにも、虚しさと無力さを伴う世界を。讃えられる栄光が、己の全てを苛む世界を。
     それでもどうにか、彼女の守る世界を彼女の一部であるこの世界を、愛して守り生きて行こうと努力はしたのだ。
     育まれた命を食す際にはその美味しさを、素晴らしい景色に出会えばその美しさを、生きとし生ける者その全てを慈しもうと、彼女の代わりに大事にしようと、試みてはみたのだ。
     けれど彼を待っていたのは、どうしようもない寂しさだけだった。
     どれほど美味しいものを食べようと、彼女と分かち合った質素な食事に叶うものはなかった。どれほど美しいものを見ようと、その感動を共有出来る彼女がいなければ心も震えなかった。
     他の誰かを愛そうとしてもーー何度もケンカした彼女より愛せる人はいなかった。
     だから、彼は決めたのだ。
    「君のために世界を滅ぼす」
     彼女を縛りつけ、搾取し続け、その犠牲の上に成り立つ偽りの平穏と美しさを。
     そんなことをして、喜ぶような女ではないだろう。悲しみ、彼を詰り、侮蔑すらされるかもしれない。真の魔王は貴方だと、その怒りをぶつけられるかもしれない。
     けれどいいのだ。
     これは我儘だ。
     あの時下せなかった決断を、引き延ばしてしまった自分の答えを、今になってようやく実現させようと言うだけの話だ。
     世界か、彼女か、ではなく、彼にとっては彼女が世界の全てであった。
     掌に馴染む懐かしい感触の束にそっと手をかけ、一度深呼吸をしてからゆっくりと長剣を引き抜く。そのまま振りかぶった切っ先は幾度か翻り、彼女を捕らえる世界樹の根を一本残らず断ち切った。
     一度は救ったはずの世界を、同じ手で容赦なく握り潰した瞬間だった。
     魔力の供給を絶たれた世界樹は、瞬く間にさらさらと砂のような細かな粒になって滅び始める。世界を滅ぼすなんて、こんなにも造作ない。守るのは、維持し続けるのはあんなにも難しいのに。
     華奢な身体を抱き上げて、彼はゆっくりと踵を返した。自ら鉄槌を下した世界が終わる様を、しかとこの目で見届けなければ。
     腕の中で彼女の瞼が震え、美しい青い目がこちらを捉えた。
    「…………馬鹿なことをしたのね」
     溜息のような言葉がこぼれる。
     彼女の身体もまた、ゆっくりと崩壊を始めていた。世界樹と同化していた期間が長かったせいだろう。侵食されて、やはりヒトとして生きることは、もう叶わないに違いない。
    「そうでもないさ」
     答える彼の身体も片っ端から崩れ落ちて行く。その欠片から立ち上る邪気を見て取って、彼女は柳眉をしかめてみせた。たった独りで約束を守るために、世界を守り続けるために、生き続けるために、彼は幾年の時間を渡るべく、ありとあらゆる禁術に手を染めていたのだ。
    「最期は君と一緒にいられる」
    「だから馬鹿だと言っているのよ」
     あの日と同じ笑みを浮かべて、彼女は笑った。
    「逢いたかった」
     どこか遠くで世界の壊れる音がする。
     二人にとっては、最早どうでもいいことではあったが。
     魔力が尽きたせいで、もう奈落を照らすことは叶わない。それどころか互いの四肢は失われ、どこに行くことも叶わない。ただ真っ暗闇の中、寄り添った互いの呼吸と鼓動と温もりだけが五感の全てを支配する。それはひどく穏やかで、ひどく安心するものだった。
     あの日、既にこの選択をしていたならば、何か違っていただろうか?
     いや、もしもの話は無粋で無意味だ。
     これでようやくおとぎ話は終わる。魔王は勇者に救われて、世界は終わりを告げるのだ。さらば偽りの平穏と幸せよ、我らが心中の糧となれ。


    ~HAPPY HAPPY MERRY BAD END~