温くなったペットボトルの緑茶を飲み干して、空になったそれをメガホン代わりに、眼前の手摺に叩きつける。嗄れそうな喉に喝を入れ、腹の底から力の限り叫んだ。
    「立川、気合い入れて投げろーっ!!」
     突き刺すように照りつける太陽が、じりじりと肌を焦がす。けれどそれ以上にひりつく想いが、俺の心を焦がしていた。
     約束したよな。
     お前の代わりに伝説作って、日本一の高見からすげえ景色を見せてやるって。
     鼓膜が破れんばかりの音量で奏でられるブラスバンド。応援団とチアの声援。目に痛い抜けるような青空と、白い雲。噎せ返る熱気、酔いそうな高揚感。
     でもそれ以上に、耳元でがなり立てる自分の鼓動がうるさい。
     この場にいる全員の期待が寄せられる。
     その一挙手一投足を、固唾を飲んで見守られる。
     決勝戦、九回裏、二死、フルカウント。
     ランナーは一度も背負わなかった。地区予選からずっと、お前は相手チームに一塁ベースを踏ませないままなんて、変態的な偉業を成し遂げた。
     一球。
     あと、一球だ。
     大丈夫、落ち着け。お前ならやれるよ。
     キャッチャーのサインに一度、二度、首が横に振られる。グラブで隠した口元の、緊張と躊躇と不安と迷いと昂りで乱れた、お前の呼吸が伝わって来る気がした。
     だって俺は、そこに立つ重圧をハンパないその息苦しさを、誰よりもよく知っている。
     三度目でようやく小さく頷いて、大きく深呼吸したのが遠目にも解った。
     投手板にかかる足。
     もう片方を高く持ち上げて、ピンと伸びた背筋はあいつを一際大きく見せる。
     負けんな。
     脳みそを占めているのはただそれだけだった。
     俺以外のやつになんか、絶対に負けんな。

    * * *

    「ねえ、それ何で金閣寺?」
     財布につけていたストラップを指差されたのは、入部翌日。立川が呑気に体操服だったのは、まだ仮入部だったからか。
     ともあれ、貰ったばかりの新しい縦縞に袖を通しながら、俺は酷く無愛想に返事をした記憶がある。
    「金字塔を打ち立てるって言葉、知らねえの?」
    「知ってるよ。でも、あれピラミッドのことだろ? この前クイズ番組でやってた」
    「…………いいんだよ。金閣寺だって形似てるし、歴史に名を残してる」
    「ふーん……中学野球のヒーロー様でも、願掛けとかしたりするんだ」
     揶揄するような口調にカチンと来たが、何も言い返さずにグラウンドに出た。無駄口を叩いている暇が惜しい。
     それから三日後、立川がきちんとユニフォームを貰っていた。ポジションは俺と同じピッチャー。
     でも、鳴り物入りで入部して、一年の夏からベンチ入りで何度も公式の試合に出た俺とは違い、立川は練習試合で所々使われるリリーフ投手でしかなかった。
     期待に応えなければいけない、けれどそれだけの実力を持った俺と。
     他の学校であればまだ扱いは違ったかもしれない、なのに気安い位置で満足する立川と。
     同じ一年で、同じピッチャーで。
     誰が比べずとも、嫌でも意識する相手だった。
     二年の夏。ベストエイト敗退。
     俺が相手の主砲に打たれたホームランが決定打。ただ一度、指がすっぽ抜けたその一球を、文句なく真芯で捉えて場外に運ばれた。
     俺のせいで先輩たちの夏は呆気なく終わってしまったのに、夢は途絶えてしまったのに、「あと頼むぞ」と渡されたバトン代わりのボールが、ずしりと酷く重かった。

    * * *

     三年生の引退と同時に、立川と俺の二本柱で組まれるようになった。
     同じメニュー、同じ二年、同じピッチャー。
     先を走っていたのに並ばれた。
     そんなどうしようもない焦りともどかしさと、勝手に背負い込んだ重圧で、いつからか俺に取って野球は楽しいものではなく苦しいものになっていた。
     責任。
     期待。
     不安。
     眠れない夜と息も出来ない昼が交互にやって来る。
     そんなものが積み重なっていたからだろう。
     ある日、俺は帰宅途中で車にはねられて重傷を負った。
     手術の末、全治3ヶ月。
     春の地区大会に間に合わない。
     それどころか、リハビリをして調整したところで、今まで通りの精密なピッチングは出来ないだろうと言われた。
     絶望しかなかった。
     この先の人生も、ずっと野球一筋で生きて行く設計しかしていなかった俺は、その全てをこの瞬間失ってしまったのだ。
    「お前は負かした相手のことなんて、覚えてないかもしれないけどさ」
     差し出された緑茶のペットボトル。スポーツ飲料が苦手で飲めない俺が、いつも飲んでいるそれを、覚えているのか。
     見ていたのか。
    「俺は崎山と野球出来るの、すげー嬉しいし楽しいんだよ。この大会は駄目かもしれないけど、野球出来なくなる訳じゃないんだろう? だったら、一日も早く治して戻って来いよ。そんで、また一緒に野球やろうぜ。待ってるからさ」
     確かにプロでないのなら、充分野球は出来るだろう。続けるだけなら、復帰は充分可能だろう。
     けれどそんなぬるま湯で生きるくらいなら死んだ方がマシだと思っていた俺に取って、立川のその言葉は、ライバルが潰れてまんまとエースの座に収まった人間の、ざまぁと見下した台詞にしか聞こえなかった。
    「お前に何が解んだよ!!」
     散々口汚く罵って、せっかく買って来てくれた緑茶を利き腕とは逆で投げ返した。

     野球部は退部した。
     続ける気力も資格もないと思った。
     立川は淡々と、でも笑って野球をやっていた。棚からぼた餅と言うよりは、降って沸いた幸運を喜んでいると言うよりは、楽しくて楽しくて堪らない、そんな笑顔だった。
     勝ちとか負けとか、気にしない訳ではないのだろうに、好きで好きで愛してんだぜと、全身で叫んでいるようだった。
     いつからか、俺はそんな風には言えなくなっていた。そんな立川が羨ましかった。
     ライバルだなんて言うのも烏滸がましい。けれど、その背中を自然と目で追うのだけは、やめられなかった。

    * * *

     腕を振り抜いたと同時、周囲の雑音の一切が消え失せる。指先から放たれたボールは、最早その意思でどうにかすることは出来ない。
     打たれる。
     研ぎ澄まされた感覚で、投手だけが漠然と捉える、予感と言うにはあまりにも確かな感触。ちらりと垣間見えた立川の横顔には、はっきりとその感情が滲んでいた。
     フルスイングがスローモーションに見える。
     真っ青な空に吸い込まれて行く打球。
     落ちろ、なんて願いも虚しく、上手く風を捉えた白球は真っ直ぐスタンドに飛び込んだ。
     一拍遅れて届く、爆発的な歓声と失望の怒声。
     振り向いて結果を見届けた立川は、納得したような肩の荷をようやく下ろせたような、どこか安堵すら滲んだ顔で整列した。
     審判の声で、両チームが帽子を取って一礼する。
     誰もが悔しさで顔をくちゃくちゃにしながら泣く中で、立川だけは涙一つ溢さなかった。
     
     全て失って手放して、何もかも放り出して、互いにその手には馴染んだボール一つになった今だからこそ、俺はあの時あいつの言いたかった言葉の意味が解った気がする。
     今度は俺が立川に言う番なんだろう。
    「また、一緒に野球やろうぜ」
     相変わらずまだ財布につけている金閣寺のストラップが、生温い風に吹かれて揺れた。


    以上、完。