表通りから一本入った細い路地は既に人気がなかった。
     周囲も早めに店仕舞いをしているためか明かりを落としている看板も多く、廃油の浮いた汚水に濡れた路面の片隅で時折野良猫の双眸がこちらの蒸気二輪のライトを反射して光るくらいで、ゴンゴンと地下の巨大歯車の絶えない呻きが響く夜の特区は不気味なことこの上ない。
     依頼主にはああ言ったものの、トラオは表通りを走ることを普段からあまりしなかった。
     故に、本来巡察隊が見て回らねばならないのは、こう言う目の届かない場所なのだと言うことをよく知っている。
     全ての澱みが蟠った片隅の夜闇にこそ、真の化け物は潜んでいるものだ。
     爪を研ぎ牙を唸らせ、獲物がかかる瞬間を息を殺して待っているのだ。
     瞬間――夜の静寂を引き裂いて断末魔の悲鳴が上がった。若い男だ。
    ――近い……二つ先の角を左!
     エンジンの出力を上げて加速すると、トラオは最小限のターンで路地を曲がった。
     店の裏口に当たるそこはただでさえ狭い道幅のあちこちに木箱や廃材などが積んで入り組んでおり、やむを得ず蒸気二輪を乗り捨てて奥へ走る。
     視線の先では機人らしき影が、もう一人を組み敷いて馬乗りになっていた。
     振り上げられたその腕は肘から下が鋭い刃になっており、既に一撃喰らわせたものかぽたぽたと血が滴り落ちている。
    「やめろ!!」
     言葉が解るかどうかはある種の賭けではあったが、トラオの声にぴくりと反応して二撃目を止めた辺り丸きり可能性がない訳でもないらしい。
    「た、助け……」
     機人の頑強な体躯の下で苦しげな掠れ声を上げたのは、誰であろう――先日十五夜で一暴れした集団の頭目らしき髭面だった。
     あの時連れていた二人は今日は一緒ではないのか、それとも彼をさっさと見捨てて逃げたのか姿がない。
     男の左脚は根元から見事に切断されており、濃い血の臭いが周囲に立ち込めている。
    ――こいつ、例の事件の犯人か……!
     背中を冷たい汗が伝う。
     刺激して機人が逆上し襲いかかって来たりなどしないよう慎重に距離を詰めながら、
    「そこまでだ……<三原則>のことは知ってるな? これ以上罪を重ねるような真似はするな」
     が、トラオをじ、と見遣った機人は不意にその首をぐるりと九十度傾けて軋んだ声をこぼした。
    「邪魔する、お前、悪い奴。嫌い」
    「違う、そうじゃない!」
    「ご主人、新しい部品必要。こいつの脚、機人蹴飛ばすくらいとっても元気。だから貰う。これつけたらご主人、病気治る。きっと昔みたいに、元気に動けるようになる」
    「お前……まさか、ビーか!?」
     とてもその姿は似ても似つかなかったが、男があちこちでそんな乱暴な真似をしているとしても病気の主人がいると言うピンポイントな条件の機人はそういまい。
     ジャキン!
     発条の跳ね上がる音と共に機人――ビーの体躯から別の刃が飛び出した。
     それは制する間もなく男の胸に突き刺さり、声を立てる間すら与えず絶命させてしまう。
    「…………っ!」
    「そうだ、お前左腕貰おう。そしたらご主人、全部の部品、新しくなる。きっと、元気になる」
     キリキリと歯車が回転する音、蒸気の白煙を噴き出して最大出力の加速でビーがトラオに襲いかかる。
     その動力部で禍々しい紫色の光を放っている一つの部品に思わず目を奪われて、咄嗟の回避が遅れた。
     斬りつけられた左肩口から血が噴き出す。
     浅かったから良かったようなものの、彼にはもう<三原則>を理解し遵守しようとする理性は残されていなかった。
     紫色に輝くその部品――機人には本来存在しないはずの煩悩を喚起する『魂一〇八』が何者かの手によって組み込まれているために。
     自我を侵され『暴走』を始めた機人を止める手立てはたった一つ――動力部を破壊するより他はない。
     それはおよそ不死とも言える機人たちを『殺す』のと同義だった。
     しかし、どの道<三原則>を侵し人間を意図的に傷つけた機人は廃棄処分の対象になる。
     国に物として壊されるか、この場で殺人犯として死ぬか――人間の都合に寄ってそう位置づけられた機人の立場に大差などない。
    ――せめて……
     取り外して元に戻せるなら、トラオは迷わずシザーケースの仕事道具を振るっただろう。
     けれど続く切っ先の攻撃を躱しざま抜いたのは、懐の銃だった。
     そのまま薙払うように振るわれる刃を受け止める。
     人間の腕などあっさりと落とす機人の膂力を、しかしトラオは指の一つも欠損することはない。
     分厚い手袋の下――切り裂かれた布地の切れ目から露わになったのは、鋼の肌である。
     機人と同じ歯車と発条とその他諸々の部品で組み上げられた義腕。
    「悪いがこいつを持って帰ってもお前のご主人の役には立たんよ」
     言いざま躱しようのない近距離で引き金を引く。
     どん、と腹の底に響く音を立てて火薬と蒸気の力で押し出された弾丸は、寸分違わずビーの動力部をそこに組み込まれた小さな部品を貫き粉々に砕いた。
     瞬間、彼を動かしていた蒸気が爆発したように行き場を失って噴き上がり、辺り一面を白く染める。
    「しまった……っ!」
     がしゃん、と何かが駆けて行く気配。
     補助動力部がある型ならばまだ動けるはずだ。
     けれど、この閉ざされた視界の中でもこちらの場所を容易く特定出来るかもしれない相手を無闇に追うのはさすがに無謀と言えた。
    「くそ、取り敢えずタツジに連絡しねえと……」
     確か少し戻れば電話があったはずだと頭の中の地図と照らし合わせて駆け出そうとしたトラオは、汚い石畳の路面に黒ずんだ何かが点々と穿たれていることに気がついた。
     廃油とも蒸気の汚れた水滴とも違うそれは、機人の体内を巡る血にも似たオイルだった。
     トラオの左腕を巡るものと同じ人間とは異なる動力源。
    「………」
     一瞬躊躇したものの、トラオは手前で乗り捨てた蒸気二輪のエンジンに火を入れ、ビーの残した痕跡を追って駆け出した。

    * * *

     建て増しを重ねた違法建築物がせせこましく立ち並ぶこの特区において、その建物は比較的上等だった。
     古びて土台が腐っているのか、自重に耐えかねて傾きかけてはいたものの別の家と繋げられていたり何だりはせず、独立した一つの「家」としての機能を有している珍しいものだった。
     が、明かりが途絶えて久しいのだろう。
     人が生活していれば必ずあるはずの気配が全く感じられない。不気味な空気が溢れているのは、古いからではなく、割れたままになっている窓硝子や外れて手入れされていない門扉から、拭い去れない死の匂いがするからに他ならなかった。
     しかし、ビーにとってはそんな些末など取るに足らない無意味なものだ。
     埃が降り積もり蜘蛛の巣が張った廊下を歩いて、一番奥の部屋へ向かう。
     そこが彼の主人が長いこと臥せっている寝室だった。
    「ご主人……ねえ、起きてよご主人」
     ぽたぽたと鮮血の滴る脚を抱えて、ビーはよたよたと歩く。
     負った傷のせいばかりではあるまい。
     曲がりなりにも成人男性の脚だ、それなりに重さも大きさもある。
     暴走の収まった元の姿に戻れば小柄なビーが持ち運ぶには、些か荷が勝ち過ぎていた。
     それでも前に進むことをやめようとはしない。
     かしゃんかしゃんと外れかけたボルトを鳴らしながら、オイルの痕を刻みながら、ビーはこの世界で一番大切な者の元へ歩く。
    「新鮮な、脚を拾って来たよ。これで、元気に動けるよ。だからねえ、ご主人目を覚ましてよ」
     しかし、それに答える声はない。
     その想いに応える言葉はない。
     ビーが向かう先、蜘蛛の巣だらけの天蓋付きベッドに横たわっているのは薄汚れて黄ばんだ白骨だからだ。
     それがかつて人間であったことを伺わせるものは、蝋化したまま張りついて所々残っている皮膚と、干からびて触れた瞬間崩れそうなほど色褪せたドレスの成れの果てくらいなもので、埃に塗れたシーツも染みだらけの壁も、饐えて澱んだ空気の中、一体いつから時を止めてしまったものか、俄には判断出来なかった。
    「ご主人……起きて」
     ベッドの周囲には幾つか、そうしてビーが『拾って来た』のであろう部位が、朽ち果てて腐り果てて枯れ果てて転がっている。
     剥き出しになった骨の上から新たな部品を接ぐように、ビーは男の脚を翳した。
     切断面を押し当て、そうすれば自然とすげ替えられるとでも言うように、何度も何度も主人の残骸に新しい肉体を与えようとする。
     不意に耳障りな音を立ててビー自身の腕が床に転がった。完全にボルトが外れ螺子もバラバラになってしまったのだ。
     汚れた床をコロコロと走って行く己の一部の歯車を見遣って、けれどビーはどうと言うこともなさそうにそちらへ向き直ってよたよたと小さな部品の後を追った。
     ぎい、ぎい……きしき、し……
     歪に歪められ今にも壊れてしまいそうな身体が軋む。
     だが、そんなことを気にする必要などない。
     彼ら機人に取って身体は取り替えの利くものであるのが当たり前だ。壊れれば直し、あるいは新しいものをつけ直し、半永久的に生き続ける。
    「ビー、無駄だよ」
     こつんと長革靴の爪先にぶつかった歯車を拾ってやって手渡しながら、トラオは静かな口調でそう告げた。
    「無、駄…………」
    「俺たち人間の肉体は、一度限界を超えて壊れてしまったら二度と元には戻らない。鋼体のお前たちと違って、動力炉が壊れなきゃ何度だって取り替えが利くって訳じゃないんだ。お前が何度新しい部品を持って来ようと、どんな部品を持って来ようと、お前のご主人はもう二度と目を覚ますことはない。もう二度と……起きることはないんだ」
     トラオの言葉をじっと聞いていたビーは、掌の中の己の部品に視線を落とした。
    「ご主人の、お願い聞けないビーは、駄目な子」
    「そんなことねえよ、お前はすっげえ頑張ったよ。ただ方法を間違えてただけだ」
    「ご主人、元気になるの楽しみにしてた。ビーと、また遊ぶの楽しみにしてた。約束した。でも、それもう無理」
    「無理じゃないさ。ご主人が来られないなら、お前が向こうに行けばいい」
     ぎぎぎ、とビーの苦しみを代弁するかのように動力部の歯車の軋む音がする。
     本当ならあの場で動けなくなって機能を全て停止させているはずなのに、余程主人のことを想っていたのだろう。
     どんなに他の部品は取り替えることが出来ても、機人の動力部だけは壊れてしまったらそれが最期だ。
     それが意志や自我があると言うこと以前に、彼らを機械『生命体』たらしめている所以だ。
     この世に一つとして同じ型番の動力部は存在しない。
     再び懐から取り出した銃の先を、ビーに向けて突きつける。
     果たしてそれを認識出来ているのかどうか――笑えるはずのないビーが安堵した表情を浮かべたような気がした。
    「おやすみ、ビー。いい夢を」
     轟く炸裂弾の銃声が、警告音を上げて走る巡察隊の駆けつけた音に紛れた。

    * * *

    「どうだ、トラオ。直りそうか?」
    「直るとか直らないとか以前に、こんな古いものをまだ使ってるアンタを尊敬するよ」
     数日後、ニヘイから急遽呼び出しを受けたトラオは朝っぱらから酒処十五夜へと出向いた。
     動かねえと示されたのは、もう随分と年代物の豆挽きだ。店の厨房では見たことがないから、彼が個人的に使っているものなのだろう。
     動かす度に染みついた珈琲豆のいい匂いが鼻先をくすぐる。
    「そりゃお前、それは婆さんの形見だからな。その珈琲飲んで俺ぁ一目惚れしちまったんだ」
    「はいはい」
    「老いぼれ独りになっちまうとよぉ、いろいろ困ることも多いもんよ。それはそうと、お前ビーの奴知らねえか? この前床掃除してたチビだよ」
    ――ああ、成程……
     ニヘイはそれを訊きたいがために、トラオを呼んだのだろう。
     しばらく使った形跡のない豆挽きなど、ただの口実なのだ。
     彼があの晩何があったかを知っているのか、それとも現状と周りの流れで察したのか、トラオは解らない。
     けれど馴染みの気のいい店主の悲しむ姿を進んで見たいとは思わなくて、ただ事実だけを述べた。
    「ビーはもうここには来ない。主人の世話で手一杯になったみたいだ」
    「…………そうかい」
     懐から煙管を取り出してくわえると、火を入れて一つふかす。独特の匂いの紫煙が店内に広がり薄暗い空間を白く染めた。
    「あんなトロくせえ奴を使ってくれる奇特な人が、俺の他にもいるんだな……ちゃんと役に立ちゃいいんだが」
     それは口調こそいつも通りに乱暴だったものの、まるで我が子を案ずる親のような真摯な声だった。
    「大丈夫……ちゃんとやるさ」
     例え自我を侵されようと、暴走し他の周囲を認識出来なくなろうと、ビーの主人に対する深い想いだけは壊されなかった。
     それは彼の出来たささやかな抵抗であり、間違うことなき本物の真心であったのだろう。
     例えその手段が間違った方法であっても。
     機人は一度紡いだ絆を裏切ることはないと言う。
     何年経っても、相手がもうこの世界のどこにも存在していなかろうとも。
    「ほら、直ったぜ。螺子が緩んでただけだ。このくらい自分でやってくれよ」
    「まあ、そう言うねぃ。せっかくだからこいつで煎れた珈琲飲んで行きな。他じゃ飲めなくなるからよ」
    「……そうだな。じゃあ、一杯だけ」
     絶えず地から響く歯車の轟音に紛れて、刃が豆を噛み砕くゴリゴリと言う音が室内に響く。
     それはさながら、機人が刻む拍動のような。
     数日前はそこで床掃除をしていた小さなビーの背中を思い出しながら、トラオはそのリズムに耳を傾ける。


    以上、完。