あれはいつのことであっただろうか。
     私がまだ田舎に住んでいた頃のはずなので、かなり昔のことであったように記憶している。過疎化が進み、静かにゆっくりとけれど確実に朽ちて行くのが子供の目にも明らかな、そんな地方都市だった。
     バスと電車を乗り継いで中心部に足を運べば、そこそこに高い建物の中に様々な店舗が犇めき合う商業施設があったものの、たかが子供風情が一人で出向けるものでもなく、学校と自宅の往復以外では家族経営の小さなコンビニに寄るのがせいぜいなものだった。
     それでも今のように携帯やネット、ゲームもそれほど普及していなかった時代だ。遊ぶ場所には事欠かなかった私たちは、毎日遅くまで泥だらけになって過ごしていた。
     土と緑の濃い匂い。虫の鳴き声、抜けるような空の青さ。
     当時はそれが当たり前に隣にあったせいで、いちいち感慨を覚えることもなかったけれど、大人になって都会に出て、毎日毎日灰色のコンクリートジャングルを眺めていると、時々どうしようもない郷愁に駆られることがある。
     あの五感全てに訴えかけて来る自然に癒されたい、と思うことがある。
     けれど、高校卒業後ーーつまりは大学進学と同時に家を出て以来、私は一度も地元に戻ったことはない。
     それは誰にも言ったことがない、とある出来事に起因している。
     その日、私は母からお使いを申し渡されて、少し離れた祖父の家に向かっていた。
     現在なら、夕刻日も沈みかけている頃合いに、子供を一人でお使いにやることなんてないだろう。田舎で大抵が顔見知りであるとは言え、あちこちに防犯カメラがあるでもない時代だ。騒ぎにならないだけで、変質者だって不審者だって腐るほどいたはずである。
     けれどこの頃は、誰もそんな高い意識など持ち合わせてはいない時代だった。
     バスに乗っても三十分くらいはかかる道のりである。けれど一時間に一本あるかないかのそれをぼんやり待って、舗装されていない悪路をガタガタ揺られて行く方を選択するのは、大抵が老人ばかりだ。
     勿論私も例外ではなく、普段は自転車を乗り回して移動していた。けれどこの日は折り合い悪く雨が降っており、私は徒歩での移動を余儀なくされた。雨の中走れない訳では、ない。が、誕生日に買って貰ったばかりのピカピカのマウンテンバイクを、泥で汚すのは嫌だったのだ。粘り気の強いこの辺りの土は落とすのが一苦労なのである。
     不恰好な長靴を引き摺るようにして歩く。
     託された荷物は決して重くはなかったが、傘を差したまま濡らさないように持って歩くのは、なかなかに骨が折れた。
     あの頃はまだ昨今のようなバケツを引っくり返したような土砂降りではなくて、しとしとと纏わりつくような雨粒が絶え間なく降り続く、まさしく誰もが思い描く明けたはずの梅雨だった。
     時折頭上から滴り落ちた雫が、大きく傘の表面を叩く。
     ちょうど田植えが終わったばかりの時期であったからか、まだ背丈もない苗たちはしんどそうに身体を縮こませて、滝行に耐える修行僧のような面持ちをして見えた。
     泥濘んだ長い一本道は、時間帯のせいで人っ子一人いない。
     思い出したように佇む古びた電信柱と街灯と、剥がれかけた何かのポスターだかチラシだかだけが、辛うじて前に進んでいることを自覚させてくれる。そんな奇妙な感覚に捕らわれていた。
     煙る前方は霧でもないに燻ってよく見えず、晴れていればマシなはずの代わり映えのない棚田のその景観も相まって、ひょっとしてこのまま永遠にどこにも辿り着かずに、いつまでも歩き続けなければならないのではあるまいか、そんな不吉な予感を覚えるには充分だったのだ。
     何に促された訳でもないが、思わずぎゅっと傘の柄を握り締める。
     半分ほどは進んでいただろう道なりで、私はいつも通りに近道をしようと、途中の林道を突っ切って行くことにした。
     本当は毒蛇が出るからだとか、土地主の墓があるからだとかで、足を踏み入れては行けないことになっていたが、そんなものを律儀に守っている子供などいなかった。
     この陰鬱な気分を、ひんやりとした煩わしさを、一刻も早く終わらせたくて、少しでも短くすませたくて、私は更に鬱蒼とした道へ足を踏み入れた。
    ーー足を踏み入れてしまった。
     背の高い樹々が立ち並んで枝葉を伸ばすその道は、踏み固められた細道こそあれど下草や苔も多いせいか一際気温が低く感じられる。じんわり汗をかいていたこともあって、半袖では肌寒さを覚えるほどだった。
     坂道でないのは幸いだったが、踏ん張りの利かない長靴はいかにも心許ない。
     噎せ返るほどの土と水の匂い。
     耳を打つ雨垂れだけの静寂。
     無意識の内に、抱えた荷物を縋るように抱き締めた。擦れる布地のざらついた感触だけが、現実と私とを繋ぐ細い糸のような気がした。
     幾ばくか進んだ辺りでふと、私は濡れた道を歩く自分の足音以外に、絞っていないびしょびしょの雑巾をコンクリート壁に叩きつけているような音を聞きつけて、思わず足を止めた。
     人の気配などない。
     けれど、そのべちゃっ、ともぬちゃっ、ともつかないくぐもった水音は、不規則ながらも断続的に鼓膜に刺さり続けている。
     心臓に氷の塊を差し入れられたような心地がした。
     平素私は、自分の直感や閃きなどと言うものを信用してはおらず、そうした動物的な生物的な勘と言うものはあまり鋭い方であるとは思っていなかった。が、誰しも生存本能と呼ばれる類いのものは、最大の危機に瀕した時、これ以上ないほど高められるものなのだろう。
     行ってはいけない。
     近づいてはならない。
     気づかなかったふりをして、知らない素振りで何気ない調子で、この場を立ち去らなければ。好奇心は猫をも殺す。
     ごく、と唾を飲む音がやたら大きく響いた気がした。雨粒ではない嫌な汗が、背中を濡らす。
     逃げろ。
     逃げろ。
     今ならまだ間に合う。
     そうーー頭では考えているのに、私の足はその意に反して藪の方へ向かっていた。
     やめろ、馬鹿。引き返せ。
     がんがん脳の片隅がそう叫んでいるのに、まるで吸い寄せられるように私は奥へ進んだ。
     惹かれているのか魅入られたのか。
     緊張のあまり呼吸するのも忘れて、心臓が痛い。ドッ、ドッ、とこんなにも鼓動が体内に大きく響いたことは、後にも先にもなかっただろう。
     姿勢を低くして這うように近づいている最中も、気味の悪い音は途切れることなく続いていた。
     いつの間にか傘をなくしたせいで、降り頻る雨が全身を濡らす。背中に張りついたシャツが気持ち悪い。頬を撫でる草の切っ先が痛い。
     やがて、藪が途絶えて少し広場のようになっている箇所を視界が捉えた。不思議なことに葉の一枚、草の一本も生えていないその場所には二人の人影があった。それが音の出所であることは疑う余地もない。
     一人は地面に横たわっており、一人は立っていた。シルエットになっているせいで遠目ではよく解らなかったけれど、その手には何かを握り締めている。
     再び佇んでいる方の影が腕を振り上げた際、僅かな光が反射して、握り締めているそれが血の滴る斧だと言うことを理解した。
     躊躇なく叩きつけられた凶器は、例のくぐもった水音を立てて横たわる影に食らいつき、血と泥を跳ね上げる。転げた方が死んでいるのだろうことは、明白だった。
     一体いつから、何度、そうして繰り返し繰り返し憎悪だか殺意だかをぶつけているのだろう。雨が降っていなければ、間違いなく吐き気を催すほどの血の匂いが辺りにばらまかれているはずだった。凄惨で非日常的で地獄のような光景だった。
     思わず、ひっ、と短く息を飲んで派手に尻餅をついた弾みで、抱えていた荷物が泥濘の中に落ちる。
     勿論それを聞き逃すほど、相手は馬鹿でもノロマでもなかった。ゆっくりと顔を上げ、背後であるこちらを振り向く。
     しかしその顔は、何故かマジックペンで塗り潰したように真っ黒で、まるでモザイクがかかった合成映像のような影で、私は人の顔として認識出来なかった。恐らく殺される、と言う恐怖のあまりに記憶からすっぽり抜け落ちてしまっているのだろうが、それでも何故か相手がにんまりと人を食ったような笑みを浮かべたことは、はっきりと覚えている。
     『それ』は悪戯が見つかった子供のような仕草で、立てた人差し指を口許に運ぶと、しーっ、とでも言いたげに密やかに吐息した。
     音声を直接鼓膜に吹き込まれたような不快感に、全身が怖気で粟立つ。
    「秘密にしといてよ。今ここで見たこと。さもないと……」
     新聞紙をぐしゃぐしゃに丸めたような声音が耳元で囁く。辛うじて人語の体は取っていたものの、おおよそその捻れた音は、言葉と呼べる代物ではなかった。
     よくぞ声を出せた、と後から自分で誉めたくなったほどの大声で絶叫して、私は穴と言う穴からいろいろなものを垂れ流しながら逃げた。幸いなことに『それ』はその場に佇んだまま、私を追って来ようとはしなかった。
     どこをどう走ったのかは全く定かでなかったが、真夜中に近い時間に祖父宅へ駆け込んで、どうにか事なきを得た。
     夕方家を出たはずの私がいつまで経ってもやって来ないものだから、こちらでも心配していたらしい。多分何度もスッ転んだせいで泥塗れ傷だらけな上、半狂乱のパニックに陥っていた私を見て、祖父母は大層案じてくれた。
     遅い時間であったにも関わらず両親は飛んで来たし、駐在所のお巡りさんもやって来て何があったのかと生まれて初めて事情聴取もされた。
     けれど私は上手く説明出来る状態になく、取り敢えずは都市部の救急病院で手当てを受けて鎮静剤を貰い、泥のような眠りに落ちた。途中何度も何度も悪夢を見て、その度に『それ』から「秘密だよ」と念を押されたが、そんなことをされずとも誰かに喋る気など毛頭起こらなかった。
     例え言ったところで誰からも信じては貰えなかっただろうし、日が経つに連れて私自身、あれは臆病風に吹かれたが故の白昼夢だったのではないか、と言う思いの方が強くなって行ったからだ。
     例え晴れた日の昼間でも、恐ろしい記憶を喚起するせいでその林道には近づいていない。
     けれど数日、数週間、数ヶ月が経ち、数年過ぎ去ってもなお、あの場所で殺人事件があっただとか、遺体が見つかっただとか言う、痛ましいニュースが流れることはなかった。
     子供の想像力は果てしない。
     これからも地元に帰ることはそうそうないだろうけれど、憑き物落としの意味合いを込めて、ここに記すことで全てを終わらせ忘れてしまおう。
     雨が降る度に意識の奥底にこびりついたものに怯えて生きるには、私も大概いい歳だ。
     風情を感じるには少しばかり勢いが過ぎる雨足を窓越しに眺めながら、パソコンの電源を切る。そう言えば、夜半からは雷も鳴るだとか天気予報が言っていなかっただろうか?
     明日は確実に電車が遅れるだろうから、早めに家を出なければ。
     欠伸を噛み殺して、歯を磨こうと洗面所に向かいかけたところで、玄関のチャイムが鳴った。思わずびくりと心臓が跳ねる。
     誰だ、こんな時間に非常識な。
     よもや隣近所がうるさいと騒音苦情を申し立てに来た訳ではあるまいし、一言文句を言ってやらねば気がすまない。踏み込まれないようにチェーンはかけたまま、鍵を開けようとしたその瞬間、鼓膜に直接投げつけられた聞き覚えのある声音に全身が凍りついた。
    「秘密にしといてよ、って言ったよね?」


    以上、完。