師父の仕事は雲を造り、人々に雨を齎すことだ。
     仙界広し、様々な法術を操り、巫力と才能に長けた者で溢れているとは言え、この仕事を任されているのは師父一人だけである。
     そして縁あって僕がそれを手伝うようになってから、早くも数週間が経とうとしていた。
    「水を汲んで来ておくれ」
     と言うのが、仕事開始の合図だ。
     二つ返事で頷いて、僕は桶を片手に屋敷の裏にある納屋に向かう。
     いつも薄暗くて少し気味の悪いそこには、大きな水樽が置かれていた。梯子をかけて上らねばならないほどの大きさであるから、酒やら何やらを仕込む大樽を想像して貰うと解りやすいかもしれない。万が一、不慮の事故で内側に転落してしまった場合を考えると、ぞっとしない気分だ。
     きっちり閉められた蓋を開けるのも一苦労で、中はいつも溢れんばかりの水を湛えている。
     それはそうだろう。
     何せこの水樽に自然と湧いて溜まるのは、人間界で流された涙だ。今もなおこんこんと尽きることなく増え続けるそれを見て、僕は小さく溜息をついた。
     これは数度往復する必要があるだろう。
     けれど、その手間が面倒で憂鬱だからではない。人間界では今この瞬間にも、止めどなく哀しみの涙が流れているーーそれが堪らなく虚しかったからだ。
     ざぱり、と桶いっぱいに汲んだそれを、溢さないように注意しながら師父の元へ運ぶ。心の底がす、と冷えてしまう温度のそれを手渡すと、余程僕は浮かない顔をしていたのか、師父は少し困ったような顔で笑った。
    「そんなにたっぷり張ってあったかぃ?」
    「ええ……まあ、」
    「そりゃ大変だ。気合い入れて仕事しなきゃあな」
     そう言って、傍らの煙草盆を引き寄せる。
     その上には大きめの硝子瓶が乗せられていた。僕は美しく深い蒼色のそれに桶の水を移す。火皿には既に葉が入れられているのか、香辛料と果物の入り混じったような独特の匂いが鼻孔を擽った。この調合の仕方はまだ教えて貰っていない。
     石を打って火を入れると、しばらくして燻された葉から、硝子瓶の中にゆっくりと煙が満ちて来た。こぽこぽと軽やかな音を立てて水を揺らし潜り抜けたそれは、長い管を通ってようやく師父へ届く。
     それを一つ吸いつけ、彼の体内で巫力を乗せてゆるゆると吐き出されたそれは、一見ただの紫煙にしか見えないかもしれない。けれど、本来ならすぐに散って消えてしまう紫煙とは違い、師父が吐き出したそれは、そのまま風に乗ってゆっくり外へと流れ出た。
     今はまだ薄いそれは時間をかけて寄り集まり固まって、人間界の空へと辿り着く頃には立派な雨雲になっている、と言う寸法だ。
     今日の雲の欠片は、先日見たどす黒い錆色よりは随分と薄く、灰色が僅かにかかっているかどうか、と言ったくらいだったから、僕は密かに安堵の息をついた。
     勿論、人間の規格とは大きく異なる師父である。健康を害しやしないか、などと言う心配とは無縁だと解ってはいるものの、やはりその口からもくもくと黒い煙など吐かれた日には仰天もすると言うものだ(何度見ても目は慣れない)。
     端から見ると、ただ呑気に煙草を吹かしているだけのような体だが、見た目以上に膨大な巫力を持って行かれるのだと言うこの仕事は、やはり師父にとってもしんどい、負荷のかかるものであることは間違いないだろう。
     出来ることならもう少し、あの樽に湧く涙の量が少なくなってくれればいいのに。
     そうして何度か師父の元へ水を運び、これならもう今日は溢れまい、と言う確信を得た頃には、随分と時間が経過していた。
     絶え間なく煙草を吸い続け、雲を造り出していた師父も疲れたのかへとへとになっており、最後の一息に至ってはもう無理だと言いた気な、言葉にならない嘆きが大部分を占めていたような気がする。
    「お疲れ様でした。すぐにご飯を用意しますから、それまでこれでも食べててください」
     淹れたてのお茶に大好きなあんころ餅を添えて出すと、師父は子供みたいな顔で笑った。
    「お、ありがとうよ。疲れた時は、やっぱりこいつに限るねぇ……ほら、お前さんも食いな」
     差し出された一つをありがたく頂戴する。
     頬張ると、少ししょっぱさもあるほっこりとした餡の甘味が口いっぱいに広がって、ささくれだった心を緩やかに解きほぐしてくれる気がした。
    「ここに来たことを……後悔してるかぃ?」
     何気ない口調ではあったものの、ずばりと核心を突く師父の問いかけに、僕は間髪入れずに答えることを躊躇した。していない、と言えば嘘になる。が、していると答えるのも、何か違う気がした。
    「師父は……しんどくないですか?」
    「そりゃあ、しんどいさ……出来れば、もう三日くらいは何もせずに寝ていたい」
    「ああ、いや……そう言うことではなくて……」
     慌てて言えば、解っていると言いた気に彼は肩を揺らした。そうして、自分が力を込めた雲の欠片たちが出て行った戸口をやんわりと眺めやってから、いつものように緩い笑みを浮かべる。
    「今日の雲の色は悪くなかっただろう? 何故だと思う?」
    「ええっと……師父の体調とか気分が、悪くなかったからですか?」
    「おいおい……そんなもので粗悪な嵐を呼ぶ雲なんか造ってちゃあ、仕事任されたりはしないよ」
     つまり雲の種類が違うのは、師父自身とは関係がない、と言うことか。答えに詰まって目を白黒させていると、
    「ケツの青いお前さんにゃあ、まだ解らんかもしれんがよ。涙ってえのは、哀しいとか寂しいとか、辛いとか……そう言う時だけに流れるもんじゃあねえのさ」
    「……あ、」
     言わんとしていることを理解して、僕は師父を見遣った。行く宛もなく、人間界に堕とされんとしていたところを彼に預かられた時、僕が思わず涙してしまったのは、確かにそうした気持ちからではなかったからだ。
    「だから、あの樽に溜まった涙がどう言う理由で流されたものか、なんてこたぁ俺にも吸ってみなけりゃ解らんのだよ。ただ、少しでもそうした重たいものを取り除いて、喜びや恵みの足しにして貰うってのが、俺の本当の仕事なのさ」
     そう言うと、師父は温くなったであろうお茶をず、と啜った。淹れたての方が美味しいだろうに、酷い猫舌なのである。
    「だから、そうそう悪いもんでもないだろう?」
    「……はい」
     哀しみに暮れるだけが全てではない。
     晴れた日にだって降る雨があるように、きっと嬉しさや安堵から流れた涙もあるだろう。そしてそうした雨は豊穣や吉兆を示すとして、人々から喜ばれるものだと聞いた。
     笑顔を作ることと涙を流すこと。
     この二つは人間だけが許された行為であるらしいから。
     それが少しでも増えればいい、と願いながら、僕はご飯の支度のために台所に向かった。


    以上、完。