2.

     窓のない地下階は、瓦斯(ガス)灯の明かりさえ搾ってしまえばいつでも夜のような常闇に包まれる。
     その薄暗がりで、弾んだ呼吸が小さく狭くはない室内に響いていた。時折詰めるように途切れ、唸りに似た声もこぼれる。真一文字に引き結んだ口唇からふーっ、ふーっ、と獣じみた息をついているのはカゲトラだった。額には玉のような大粒の汗が滲み、こめかみを伝って頬を流れ、顎からぱたぱたと絨毯の上に滴り落ちては染みを穿つ。
    「一体……何度する気じゃ、カゲトラ……わしはもう、保たぬぞ」
     呆れたようにナナキが気怠そうな声を上げたものの、眉間の皺を一層深くしながらじろりと鋭い視線が返って来た。
    「うるせえ……もうちょい付き合え」
    「全く、朝から元気な奴じゃな……あ……っ、」
     ぎ……っ、ぎ……っ、と二人分の体重を受ける床板が抗議するように軋んだ音を立てる。規則正しい律動が急くように少しだけ早まった。
    「早うせい、カゲトラ……もう無理じゃ!」
    「ぐ……っ、」
     何度目になるか解らない苦鳴を、噛み締めた奥歯と喉奥でカゲトラが押し殺したのと、かちりと一目盛分針を動かして定めた時間を告げるべく機巧時計がけたたましい鐘の音を上げるのとは、ほぼ同時だった。
     途端に力尽きたようにその場にべしゃりと崩れて潰れた彼に代わり、腰かけていたその背中から降りるとナナキは騒がしい時計の釦を押して時限装置の仕掛けを止める。
    「三分で腕立て伏せ百七十八回……もう五度挑戦しておるのだから上出来であろう。あまり無茶をして、身体に負荷をかけ過ぎてもよくないと思うがの」
    「あああああ、くそっ!! 百八十の壁があああああ!!」
    「大体重石が必要なら、わざわざわしが乗らずとも倉庫にある漬物石でも担げば良かろうに……」
    「ありゃ均等にならねえんだよ。あと痛い。固い。どうせなら感触いい方がやる気が出るに決まってんだろ。お前安産型だぞ、良かったな」
    「…………主は張り倒されたいのかえ」
     真顔で立てられた親指を逆向きにねじ曲げてから、ナナキは纏わりついていた眠気を振り払うように大きく伸びをした。均一の姿勢を保って動くものに座ると言うのも、なかなか骨が折れる行為である。
     しばし転がったままぎりぎりと痛みと悔しさを噛み締めていたものの、寝ていたナナキを無理矢理叩き起こして訓練に付き合わせた、と言う罪悪感はあるのか、大人しく起き上がったカゲトラは、傍らに放り出したままでいた手拭いを拾い上げて奥へと向かった。大方汗だくの貼りついた服が気持ち悪くて、水でも浴びるのだろう。
     彼に誂えられた自室は上階の執務事務所の奥にちゃんとあるし、そちらにはここと同じように簡易な調理場も風呂も備え付けられているはずだったが、カゲトラは流石に眠る時こそ自室に戻りはするものの、多くの時間をこの地下階で過ごし、ナナキの居住空間を当たり前のように使って寛いでいた。
    ――本当に、あやつは変な奴じゃ……
     それが嫌と言う訳でなく、寧ろ何もすることがないどころか、今が昼なのか夜なのかすら曖昧な時間をひたすら空費していたナナキにとっては、とても有り難い変化ではある。他の人間がいる温もりは、今まで独りで過ごすことが当たり前だったナナキに、自らを人足らしめるための緩やかな楔のようだった。
     今まで相方として選ばれた者たちが、こんなにも彼女の近くに歩み寄って来たことは、ない。ナナキの方も下手に踏み込んで相手を傷つけぬようにと、手を伸ばすことは最初から諦めていた。
     カゲトラといると己が兵器であることを――人間ではない異貌の化物であることを、忘れてしまいそうになる。
    ――さて、腹は減らぬがあれが大人しく鍛練をやめたからにはそろそろ昼時であろう……
     午後からは出かけねばならないから、食事の準備をしなければ。
     調理場へ向かうと、いつも大体カゲトラが自分の食べたいものを置いている。
     今日は魚の干物と卵がちょこんと卓の上に乗せられていた。蒸気釜の火は入れてくれていたらしく、中を覗くとほこほこと立ち上る白い湯気の向こうで、粒が立った艶やかな米が甘い匂いと共に炊き上がっていた。
     竈の上に鎮座した小鍋には、ざく切りの大根葉と茄子の味噌汁が、あとは味噌を足して仕上げるだけの状態で放置されている。
    「ふむ……」
     干物を網にかけて弱火で炙りながら、ナナキは椀に卵を割り入れて、慣れた手つきで解きほぐした。少しずつ出汁を足して伸ばし、隠し味に砂糖を一摘まみ。薄く油を引いた鉄鍋に流し入れて、ゆっくりじっくり焼いて行く。
     それを何度か繰り返していると、不意に肩越しにカゲトラが鍋の中を背後から覗き込んで来た。
    「俺がだし巻き食べたいの、よく解ったな。これは本当上手く作れた試しがねえ」
    「うむ……何となくな。こら、身体をちゃんと拭いて来ぬか! 滴が中に落ちる」
     近過ぎる顔をぐいと向こうに押しやると、渋々カゲトラは踵を返した。まだ上半身裸のその背中には、月を仰いで佇む虎の刺青が全面にでかでかと刻まれている。カゲトラが身動ぎする度にまるで生きているように躍動するそれは、いつしか本当に飛び出してこちらの喉笛に牙を突き立てて来そうな気がした。
    ーー全く……あんなものを背負うて、よう無事だった
    もんじゃ……
     太陽を唯一無二として崇め、歴代総督をその御遣いとして絶対の存在と考えるヒノモト帝国にあって、月を拝むことは反逆の意思あり、と取られても仕方がないのが現状だ。ましてや、軍部内で謀反人の烙印を押されることは、斬首刑が揺るぎなく確定することに等しい。
     それを彫ったのがいつだったにしろ、カゲトラが今も生き長らえているのは、偏にその稀少な『血』を持つ故だろう。マガツヒトであるナナキの生贄として適合する血液は、九つに分別された型の中で最も比率が低いものであると聞いている。
     出来上がった品を並べると、いただきますもそこそこに、カゲトラは片端からがつがつと勢いよく食べ始めた。
    「うん、美味ぇ」
     始めの頃はその様子を見るだけに留めていたナナキだったが、近頃は少しだけ箸をつけるようにしている。一人で食うのも気まずいだろ、と言う相方の声に押されたせいもあるが、見ていて気持ちがいいくらいの食べっぷりはとうの昔になくしたはずの食欲を思い出させるのだ。
     けれど、それも今日はいつもより箸の進みが遅い。
    「どうした? どっか調子悪いのか?」
    「いや……それよりカゲトラ。今日は所用で出ねばならぬ故、食べ終わったら付き添って欲しいんじゃが」
     いついかなる時に吸血の発作に襲われるか解らないナナキは、単独での行動を許されていない。この第十三大隊拠点に、地下深くナナキ専用の檻があるのもそのためだ。
     任務の最中であろうと、個人的な用件であろうと、監視と抑止のためにマガツヒトは、外では相方と常に一緒にいなければならないのだ。他人に束縛されるのが大嫌いな性質のカゲトラは、こうした任務が向いているとは到底言えないのだが、その常の仏頂面を崩すようなことはなかったものの、さして面倒そうな様子も見せずに二つ返事で頷いた。
    「いいぜ、どこ行くんだ? また何か欲しいものでも見つけたんかよ」
    「いや、今日は……そんな楽しい用件ではない」
     とうとう箸を置いてしまってから、ナナキは珍しく憂鬱そうな顔で眉を潜めた。
    「定期検査に行かねばならぬ」


    →続く