影を持たぬ者はこの世ならざる者。魂魄が引き離されて地上を彷徨う卑しき亡者。鬼になりたくなければ良い子でいな。影盗人に影を盗られてしまうよ。
     幼い頃、この国の子供たちは親からそう何度も言い聞かされて育つ。どんな悪鬼死神の類いかと恐怖に震え、誰もがその足音が近づいていやしないかと一度は耳をそばだてるものだが、実際影盗人は物の怪、怪異の一種ではない。彼らはちゃんと実態のある生身のーー想像上の魔神の方が、どれだけ可愛気があるだろうと思える歴とした人間だ。
     帝国軍において唯一総督直下に置かれた特殊な編制、例えどれほどの地位に上り詰めようと権力を手に入れようと、彼らを手足のように使役し絶対命令を下せるのはこの世でただ一人ーー当代の総督のみと言う独立性、天の声を御意を確実に執行する、影盗人は総督直属の暗殺部隊である。
     このヒノモト帝国の長い歴史において、歴代総督を陰から支えこの国の行く末を在り方を導き決めて来た、御遣いだ。その羽ばたきを聞いた者は影を見た者は、決して振り下ろされる鋭い爪牙から逃れることは出来ない。
     そんな恐ろしい生粋にして屈指の戦士が追いかけ回すには、狙いを定められている人物は余りにも脆弱で貧相だった。
    「聞いてない……影盗人が出て来るなんて、オレは聞いてなぎゃあああっ!!」
     自慢の機関銃はどこへやったのか、見苦しく踵を返して逃げようとする背中を斬りつけられて男は呆気なく絶命する。どれだけ立派な装備を手にしていようと、それを使えなければ意味などない。
    「糞が……」
     小さく舌打ちをこぼして、カゲトラは先程襲撃犯が突き破った窓から五両目の車内へ飛び込んだ。血溜まりを物ともせずに、別の男へ斬りかかろうとしていた影盗人へ向けて〈魔神兵装〉シュラモドキを鞘走らせる。
    「何してやがる!!」
     大喝と共に放った一刀は、まるで挨拶するような気軽さで受け止められた。背中に目でもついているのか、と思えるほどに呆気なく、けれどゆっくりとこちらを振り向いた影盗人が、標的を戦意を失った襲撃犯から自分へ切り替えたのをカゲトラはその気配で察した。
    「殺すな。そいつは生きて捕まえる。訊きてえことがあるからよぉ」
     影盗人は決して喋らない。それどころか一切声を立てない。
     そのつるりとしたーーと言うには余りにも凹凸の少ないのっぺりとした白磁は、没個性を狙ったものか、小刀で斬りつけたように目と口の辺りに僅かな切れ目が入っているだけで、何を主張するでもない無表情さで、完全に彼の正体を隠している。
    ーーこいつ……一人で……
     ここには一体何人襲撃犯がいたのだろうか? 先頭車両が被害を受けてから、カゲトラがここに辿り着くまでそう時間はかかっていないはずだが、その数分でこの影盗人は複数いたであろう彼らを、銃器で武装していたにも関わらず細切れにしてみせた。
     対峙して刀を合わせるまでもない。凪いだ湖面のように静かだ。まるで呼吸するように自然に相対した者の命を奪う、強さとはまた違う軸に立つ者。
     すい、とこちらをいなすように引かれる刃。
     ノッて蒸気駆動に火を入れ力を込めて押し入れば、死角から鋭く別の一刀が牙を剥く。咄嗟に鞘を抜いて受け止めたものの、流れるように繰り出された蹴りの爪先に前髪数本を持って行かれた。
    ーー暗器仕込んでやがるか!!
     舌打ちと共に間合いを外す。
     先頭車両とは異なり、客席が箱型で向かい合うのではなく縦の長椅子であるため、刀を振るうのにそこまで不自由はないが、相手のどこから凶器が飛び出て来るのか予測出来ないのは厄介だった。
     だからと言って、踏み込まねば話にならない。
    ーー今の俺は、迅さだって負けてねえぞ!!
     ダンっ、と力強く床を蹴ると同時、新調した軍長靴(ブーツ)の踵に仕込まれた蒸気駆動が瞬く間に咆哮を上げ、前方に投げ飛ばすようにカゲトラの身体を加速させる。陰人(オンヌ)との空中戦を想定した圧力装置(ブースト)であったが、その出力方向を変えればこんな使い方だって出来るのだ。
     刹那で懐に飛び込んだ体躯に、さすがの影盗人も反応出来ない。
     その胸倉を掴み上げ、がばりと持ち上げた男を背中から床に叩きつける。息を詰まらせても暗殺者は声をこぼさない。お返しとばかりに小太刀が閃き、彼を押さえ込もうとしていたカゲトラの腕から血飛沫が噴いた。


    →続く
    スポンサードリンク


    この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
    コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
    また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。