彼は震える手を伸ばして、少女の細い肩を掴んだ。色の失せた口唇からこぼれる吐息は絶え絶えで、今にもあっさりと消え失せてしまいそうであった。その胸元は夥しいまでの鮮血で、ぐっしょりと濡れている。
「私は間もなく死ぬ……生命活動を停止する。最期まで、守ってやれなくて……すまない」
「博士」
「このドアから出たら、どこか遠くへ……どこでもいい、奴らの手の届かない場所へ、逃げるんだ。決して……決して、奴らに捕まってはいけないよ」
真っ直ぐに少女の瞳を見つめてそう告げると、男はパネルを操作してドアを開けた。
途端に、凄まじい勢いの風が室内に飛び込んで来る。超高層ビルの非常口だ。バタバタと吹きつける風は容赦なくその華奢な身体や髪を煽り、万一に備えて設置された細い柵や薄い踏板はあまりにも頼りなく見えた。夜の闇はどこまでも深く横たわり、それに抗うように牙を剥く色とりどりのネオンも遠い。
「博士」
不安気に、怖気づいたように少女は傍らを仰ぎ見る。
「一緒に」
「さぁ、行って」
男は促すように少女の背中を押した。
「私は一緒に行けない」
「嫌」
ぎゅ、と白衣の袖を掴まれて、彼は僅かに柔らかな笑みを浮かべた。
ぜろぜろと嫌な音を立てる胸の痛みをどうにか堪えて懐を探ると、内ポケットから懐中時計を取り出す。丁寧に磨かれてはいるものの、幾分くたびれたように年月を重ねたそれは、しかし変わらず正確な時を刻み続けていた。それを少女の小さな掌に押しつける。
「これを」
視界が霞む。
呼吸が苦しい。
死はすぐそこまで迫っていた。
「これを君が信頼出来ると思った相手に渡すんだ。それまでは隠して、決して知られないように」
「博士」
わあわあと背後が騒がしくなって来る。奴らが追いついて来たのだ。怒号、銃声、破壊音。見つかるのは時間の問題だ。
「ノイン、愛しているよ。いつでもどこにいても……君の幸せを祈っている」
少女を一度抱き締め、精一杯の笑みを浮かべると、男は再度その背中を押した。
「行って。さあ、早く急いで」
彼の表情に何を見たのか、少女はぐっと言葉を飲み込むように口唇を噛み締めると踵を返した。軽やかな音を立てて、階段を駆け降りて行く。
その姿が折り返して男の視界から消えたと同時、いくつもの足音と共にマシンガンを構えた屈強な男たちが姿を現した。
「いたぞ、シバ博士だ!!」
「ノインがいない! 外か!?」
「やれやれ……貴方も困った人だ」
不意に響いた別の声に、男たちの人垣がざっと割れる。まるで聖書のワンシーンのようにその波間を超えて姿を現したのは、背の高い青年だった。その体躯を隙なく洒落たスーツが包み、磨かれた靴が床を踏み締める。
「あれは貴方のものではない。勝手にする権利はありませんよ」
「あの子を勝手にしているのはどっちだ」
足に力が入らない。
それでも必死に踏ん張って、男ーーシバ博士は白衣の懐から小さなスイッチを取り出した。カバーを外して赤いボタンに指をかける。
起爆装置だ。
隊長らしき男が、青年を庇うように前に出る。
「会長、下ってください」
「私は」
視覚デバイス(めがね)越しにシバ博士はそれを睨みつけ、
「私はこんなことをするために、協力を了承した訳ではない! もう、うんざりだ」
「よろしい、では業務環境と賃金の改善を……」
「そう言う問題ではない! 倫理と正義の話だ!!」
「……結構。では、契約終了としよう。処理しろ」
瞬間、非常灯を打ち消すほどの眩しさで瞬くマズルフラッシュ。叩き込まれた弾雨に、起爆装置を押す間もなくシバ博士の身体はボロ屑のように弾けて鮮血を撒き散らした。
「黙ってその才能だけ使っていればいいものを」
烟る硝煙に眉をひそめながら、青年は男たちに顎をしゃくって促した。
小さく首肯を返し、隊列が狭い入口を潜って外階段を駆け降りて行く。怯えながら、警戒しながら出来る限り急いで降りて行く少女を、歴戦で怖いもの知らずの部隊が発見するのに、そう時間はかからなかった。
「いたぞ!」
「馬鹿、撃つな! 殺す気か!?」
頭上から浴びせられる銃声を、少女は隅の方に身体を丸めてやり過ごした。間近で弾ける弾丸に、何度もびくりと表情を強張らせる。遮蔽物のおかげで当たりはしなかったが、その歩みを鈍らせるには充分であった。
それでも、
「逃げなきゃ……逃げなきゃ」
何のためにシバ博士が無理をして自分を外へ出してくれたのか、その理由が解らないほど愚かではないつもりだ。震える足を必死に動かして、彼らに追いつかれる前に地上に降りなければ。
再び下り始めた少女へ、先頭の隊員は小さく舌打ちをこぼした。足場も風も、狙撃には向いていない。
「挟み撃ちにしよう。ブラボー、三十七階区画Zへ。外階段より上へ応援願う」
「ブラボー了解」
インカムに返った答えに頷いて、再度慎重な足取りで進んで行く。
それを知らない少女は頭上を警戒しながら少しずつ階段を降りていたが、不意に風の哭き声に混じって違う音が近づいて来るのを聴覚センサーが捉えた。しかも一つ二つではない。確実にこちらを目指して、何者かが階段を上って来ている。
咄嗟に覗き込んだ手摺の向こう、ちらりとダークグリーンの衣装が見えた。
ーー下から来てる……挟まれた!
ドッ、と緊張が足元から這い上がり、あっと言う間に全身に回る。このままではどちらかに捕まってしまうだろう。
ーーどうすれば……
必死に辺りを見渡せば、ちょうどビルの外壁窓枠が足場になりそうだった。人一人がぎりぎり立てるほどの幅ーー足を滑らせれば一巻の終わりだ。危険は外階段の比ではない。しかし、少女に迷っている暇など残されていなかった。
意を決して身を乗り出し、どうにかそちらへ乗り移る。途端に一際強い風が吹き、危うく転落しそうなところを辛うじて踏み止まった。
「おい、何してる! 戻れ、死ぬ気か!?」
慌てて男たちがこちらへ手を伸ばすが、少女はぶるぶると震える身体を懸命に前へ進める。連れ戻されればどう言う扱いが待っているか、それを考えればここから落ちた方がまだマシだ。
「くっそ、ロープ持って来い!」
「区画Yから回ります!」
フロアのドアを開いてブラボーチームがビル内へ入って行く。それを横目に見ながら、少女は一歩ずつ窓枠を伝って別の道を探し続ける。
が、室内を移動したブラボーチームがその行く手の窓硝子をぶち割る方が早かった。銃声と共に砕け散った破片が夜空に舞い、命綱をつけた隊員が身を乗り出して少女へ掴みかかる。伸ばされた太い腕は、容易くその体躯を捕まえた。
「ノイン、確保!!」
「嫌、放して!!」
「大人しくしろ! 暴れたら落ちあああああっ!?」
男の台詞が途中から絶叫へ変わったのは、少女の身体が仄かに不思議な光を放ったからだ。青白いパルスが触れた衝撃で即意識を失った彼の耳には『登録者に該当はありません。接触を拒絶します』と言う無機質な機械音声は届いていなかっただろうが。
ともあれその勢いも相まって、少女は呆気なく空中に放り出された。まるでスローモーションのように己を支えるありとあらゆる存在がなくなってしまったことを自覚したのも束の間、重力に従ってその小さな身体は凄まじい速さで地上に向かって落下して行く。
「…………何てこった」
仲間が道連れにならないように抱えるのが精一杯で、男たちに少女にまで手を伸ばす余裕はなかった。この高さから落ちては無事ではすむまい。
それでも報告しない訳にもいかず、男は目の前で起きた事実を告げるべくインカムのスイッチを入れた。
「こちらブラボー、ノインがロストした」
→続く
スポンサードリンク