宵の口、街に明かりが灯り出してからが西区の本領発揮だ。巨大な監獄とも言えるこのタイクーンにおいて、歓楽街としてあらゆる娯楽享楽を揃えたこの区画が徐々にネオンの彩りを増やして行く様は、怪物の体内に血流が巡り目覚める様を想起させる。
     それでもここ数日は随分と人が減った。
     切り裂き魔の話を耳にして、襲撃を恐れ足が遠のいているのだ。
     そんな中でもアウトローだらけのこの街は「被害者は皆オンナだろう? 殺人鬼が怖くて酒が飲めるかよ」と高を括っている輩は少なくなかったし、そうした男を相手に日銭を稼がなければ明日をも知れない女も掃いて捨てるほどいた。
     エンが野良の娼婦のフリをして立ったのは、メイン大通りから一本奥に入った路地の角だ。
     何せ表は『きちんとした』白虎クランの店が並んでいる。その前で客引きをするのはルール違反だし、正面から彼らに粉をかけるような真似をする馬鹿はこの街で生きていけない。
     分を弁えて控えめに、目を瞑ってくれる見逃してもらえる範囲でこっそりと袖を引く。
     目立ち過ぎてはいけない。
     あからさま過ぎてはいけない。
     訳ありで店には立てない、けれど稼ぐ手段を他には持たない、この街で最も無力で弱い存在。
     故に何かあった時の後ろ盾がない。
     暴力を振るわれても自己責任になる。
     そこにつけ込んだような今回の事件の卑劣さを、エンは何よりも許し難かった。諦めて笑うしかない弱さを蹂躙する身勝手さに反吐が出そうだった。
     研ぐための爪や牙もない獣もいる。
     大抵の店から客が帰路につく時間辺りを狙って、ひたすら待つ。犯人の行動を予測する限り、事件の周期、場所、時間ーーどれを考えても今夜がベストなはずだった。
     その間、エンは幾度となく酔客から声をかけられた。丁寧な依頼から札束をチラつかせての傲慢な依頼、力づくでの依頼、罵声と揶揄と卑猥な誘いと彼女たちが日常で味わう全ての侮辱に何度か素で拳をくり出しそうになったのを懸命に堪える。
     影で見守っているトワが飛び出して来るのではないかとヒヤヒヤした場面もあったが、彼は合図を出すまで絶対に出るなと言うこちらの言いつけを徹底して守ってくれた。
    ーー帰ったら……めっちゃ褒めて甘やかしてやろ……
     やがて人々の通りもポツポツと減り、明かりを落とす店も増えて来た。
     以前は明け方まで夜通しが当たり前だった不夜城も、ここ最近は早めに宿なり娼館なりに腰を下ろしてやり過ごす、と言うスタイルに落ち着きつつあるのだ。
     街灯の明かりがチラチラと瞬く。
     静まり返った路地には、閉ざされた扉の向こうから響く嬌声や笑い声がよく響いた。
    ーー来い……来い、狙い目だろう?
     客が掴めなかったためそろそろ帰るかどうしようか、と躊躇するように何度も時計を見やる。その間も他の路地で凶行が行われてはいないかと募る焦りもどうにか噛み殺し、ひたすらに待つ。
     無力な子羊のフリをして。
     そうして何度目か、帰ろうかと歩き出しかけたフリをしたところへ、
    「こんなとこで何してんの?」
     不意に声をかけて来る男がいた。
     振り向けば、そこには白虎クランの下部組織である『風車』のジャケットを羽織った若者が一人佇んでいる。
    「あの……お客さん、探してて」
     クランは持てる人員を総動員して犯人を探している。活動範囲は領内に限るとは言え、当然末端に至る構成員までその指令は行き渡り、巡回と捜索とを兼ねて多くの人間がこの街に目を光らせているのだ。
    「キミ、最近来た子? あのね……今この街はちょっと危なくて……こんなとこで客引きしないで早く帰んな?」
    「し、知ってます! 女の子狙った殺人鬼がいるって……でも、あたしお金ないから、危なくてもお金いるから……」
     そんな中でどうやって、犯人は獲物を狩っていたのか? 彼女たちだって無知ではない。犠牲を出さぬようにそうした輩がいることをクランは周知した。
     にも関わらず、こうして立て続けに数名屠られてしまったのは、
    「……解った。じゃあ、今日の分は俺が出すから。クランからそのための金も預かってる。だから帰るんだ。送るよ」
    「……それなら、帰ります」
    「よかった……じゃあ行こう」
     男が促すようにそっとエンの肩を抱く。
     その次の瞬間、まるで沸騰したヤカンにでも触れてしまったかのように彼はその手を跳ね上げた。掌を貫通した鉄針の尖端が頼りない街頭を反射して光る。
    「な……っ!?」
    「腐れ警官すらいないこのタイクーンにおいて、最も警戒されにくい立場の人間は誰か」
     答えはただ一つ、組織の人間だ。
     この街を守るために絶対的な盟約と掟の鎖をかけられた者。
    「ち……っ、てめえ男か!」
     親切ぶっていた男の仮面が剥げ落ちる。
    「トワ、こいつを狩れ!!」


    →続く
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