自分の身体に価値がある、と言うことをエンが知ったのは、小学校に上がったばかりの頃だった。
     昔から酔っ払うと手のつけられないDV野郎になる父親に耐え切れず、母親はまだ物心つく前に家を出ており、それから今の今までどうしているか知らない。知ろうとも思わない。
     幼かった頃は、どうして自分も連れて行ってくれなかったのかと恨みごとを覚えもした気もするが、今なら単純に邪魔だからだろうと言うのが理解出来る。子供がいるのといないのとでは、手間も金もかかる労力が格段に違うからだ。
     ともあれ、ゴミだらけの部屋でろくに仕事もしていない父親が帰宅する度に、殴られ蹴られ賭け事で金をスった腹いせをされるのが、当時のエンにとって世界の全てだった。
     痛いやめてと抵抗すれば、泣いてわめけばさらに酷くされる。
     不満を表に出せば、何だその目は誰のおかげで飯が食えている、と罵倒される。
     全てを諦めて暴風雨のようなそれらをただただ無心でやり過ごすようになるまで、それほど時間はかからなかった。
     あれは真夏の茹だるような夜だったように記憶している。
     いつものように日付が変わった真夜中に帰宅した父親は、寝ていたエンを無理やりに犯したのだ。
     酒臭い息を吐きながら、獣のように己の身体を貪り無様に腰を振る生き物を、何て醜悪で薄汚い化け物なのだろう、とエンは冷めた心地で見つめていた。
     『コレ』は一体何なのだろう?
     『コレ』は一体何をしているのだろう?
    「ここまで育ててやったんだ……なあ、そろそろお前もその恩を返せるようになったろう? あの売女そっくりのその綺麗な顔を、ちっとは役立てて稼いでくれよ」
     のしかかる他人の重さ。
     耳元で吐かれる荒い呼吸。
     喉奥や後孔に捩じ込まれる肉の塊。
     ぶち撒けられた白濁の生温い感触。
     それが何を意味するのか解らないほど幼くはなかった。だからこそ、エンは己の中に大きな亀裂が入ったのを痛いほどよく理解したのだ。
    ーーこいつを殺そう……
     自由になるためには、
     この支配から抜け出すためには、
     元凶である怪物を殺してしまうしかない。
     けれど、この檻を出た時にどこへ逃げ出すにしろ、生きて行くためには金がいる。
     都合のいいことに、父親は次の日から数人の男を連れ帰るようになった。
     馬鹿みたいに高い金を払って、男たちは代わる代わるエンを犯した。一晩で数人を相手にするのは当たり前、時には一日中ぶっ通しで引切りなしに精液を注がれ続けた。
     それでも商品としての価値が下がることを知っているからか、父親から殴られなくなっただけ随分マシだと思った。
     男を喜ばせるよう躾られたエンに、彼らは一度でどっぷりハマるらしい。
     あの怪物と同じように無様に自分を抱く彼らから、別口で父親を介さず金を引き出すのはそれほど難しくなかった。その代わり、無茶苦茶な要求をされても大抵のことは頷かねばならなかった。
    「可愛いね」
    「最高だよ」
    「気持ちいい」
     反吐が出るような台詞も、
     虫唾が走るような行為も、
     こっそり隠して貯めた万札を数えて堪え切った。いつだか客から聞いた犯罪都市の人工島『タイクーン』への渡航費一千万。
     それをきっちり揃えた日、エンは父親を滅多刺しにして殺した。一緒にいた客のクソ野郎三人も道連れにしてやった。
     どしゃ降りの雨が降った日だった。
     最高に愉快だった。

    * * *

    「エン……やっぱ、やめよ」
    「今さら何言ってんの……これが一番手っ取り早いだろ?」
    「そう、だけど……」
     ティーグからよこされた資料は、クランもどうにか犯人を上げたいのだと言う情念をひしひしと感じるほど詳細だった。
     よくもまあ、あの死体から野良の身元を割り出したものだと溜息が出るほど、全被害者のことを事細かに調べてある。氏名(勿論本名ではないだろう、ここでの通称だ)と顔写真は勿論、住所、年代、体格、服装、どこで客を取っていたか、最近の金回り、馴染みと思われる者、現場の検分まできっちりと、だ。
     故に、被害者の共通点ーー獲物として狙う犯人の好みや時間、場所などはぐっと絞り込めた。
     どこに潜んでいるのか解らない相手を闇雲に探すのは愚の骨頂だ。エンが提案したのは、自らを囮にしたおびき出し作戦だった。
     無論、綺麗に化粧をしてあれやこれや変装を施した今の彼は、どこからどう見ても客引き中の娼婦にしか見えない。
     むざむざと殺されるほど柔ではないつもりだ。
     修羅場はいくつも超えて来た。二十秒もあれば、トワと二対一になれる。そうなれば誰が相手であろうと勝ち確だ。
     それでも、ほんの一瞬でも、万が一の可能性を考えるとトワは心配で堪らないのだろう。
    「お前、俺がただでヤラれると思ってんの?」
    「思ってな……」
    「じゃあ、信じろ」
     引き止めるようにこちらのストールを握っているトワの手がぎゅ、と握り締められる。そっと手を伸ばしてくしゃりと髪をかき上げてやると、エンはゆっくりと口唇を重ねた。
     剥げて、トワの口唇を汚すルージュをぐしと親指の腹で拭いながら、
    「俺はお前を信じてるよ」