予告時間まで残り一分を切った。
     もう近辺にいなければ犯行は行えない。つ、と頬を汗が伝う。必ず傍にいるはずだ。
     三十……二十……十……三、二、一……
     午後十三時ジャストを部屋の大きな柱時計が告げると同時、ミツキが身を寄せた窓枠と二人が向かい合って座るテーブルから、凄まじい勢いで白煙が噴き出した。
     咄嗟に息を止めて吸い込まない努力をしてみるものの、人間は肺で呼吸する生き物だ。
     呼吸を止めておけるのにも限度がある。
     どうやら致死性のものではないようだが、身体の奥からじんとした痺れが広がって、まるで全身に鉛でも流し込まれたか重力が増してしまったように動かせなくなってしまう。
    ――しまった、麻酔ガス……!
     早々と床に沈んでしまった二人を横目に、何とか踏ん張ろうと足に力を込める。が、そうすればそうするだけ手足は縛られてもいないのに雁字搦めになり、ミツキはとうとうその場に倒れ込んでしまった。
     かなり堪えていたつもりだったが、実際の時間にすれば十数秒と言ったところだろう。
     どうにか起き上がれないかともがくミツキの耳に、ほんの僅かな引っ掻き音が聞こえた。
     何と言うことはない。
     種も仕掛けもなく正面突破でやって来たバレットは、呆気ないくらい当たり前にガラスカッターで窓の鍵をこじ開け、堂々と離れに足を踏み入れたのだ。
     思えば、去った後のことなどどうでもいいのだ。下手な小細工を打って足が着く危険を冒すより、至極簡単で真っ当な手段を選ぶのは当たり前の話である。
     密閉状態だった室内が、窓に穴を開けられたことで空気が流れ浄化されていく。白煙の中から姿を現したのは背の高い男だった。
     ――怪盗バレットだ。
     黒髪にジャケットとネクタイ、ズボン、革手袋、靴に至るまで全てが黒尽くめと言う、真昼のこの時間にあっては目立ちすぎるほど目立つ出で立ちである。おまけに麻酔ガス対策のためにだろう、特殊部隊がつけるような大きなマスクを装着しており素顔は解らない。
     けれど隙のない身のこなしは野生の猛獣を思わせる鋭さを帯びており、大胆さを裏づけるだけの修羅場を潜って来たことを伺わせた。
    「き、貴様……一体どうしてこの場所が……」
    「悪人が何かを隠す時は自分だけが手の届くところってなぁ、相場が決まってるだろう? まあ、盗聴器なんかもあちこちに仕掛けさせて貰ったがな。一人だからって油断して、大事なことをあんまりべらべら喋るもんじゃねえぜ?」
    「馬鹿な……あれだけの数の、警備を……突破して来た、と?」
    「外を彷徨いてた連中のことか? んな訳ねえだろ。ヘリでここの前に降りたさ。俺ぁ無駄な争いはしない主義なんだ」
     床に這い蹲った蜂須(はちす)代議士の問いを、さも馬鹿げていると言いたげに鼻で笑いながらバレットは答えた。くぐもってはいたが、よく通る低い声は張りがあり、まだ若い。
     一人無造作な仕草でテーブルの上に置かれていた箱からひょいと指輪を取り上げると、矯めつ眇めつしてその真偽を確かめる。そうしてようやく納得したのか、そのままポケットに突っ込んだ。
    「確かに……本物だな。じゃあ、悪いがこいつはいただいて行くぜ」
     悠々とした足取りで部屋を後にしようとするバレットの背中に、痺れた身体全ての力を振り絞って高台寺(こうだいじ)が銃を向ける。
    「止まれ、バレット!!」
    「へえ? アンタもう動けるのか。なかなかやるな」
     振り向きもせずに足だけを止めて、バレットがそう答える。だがその口元には確信犯の不敵な笑みが浮かんでいるだろうことが、何故だかミツキは手に取るように解った。自分も負けじと腕に力を込めるが、上体を起こすのだけで精一杯だ。
    「そいつを返せ」
    「断る。手錠かける相手が違わねえか、文保局さんよ。それに、銃で俺に勝負を挑もうなんざ無謀を通り越して馬鹿げてるぜ。伊達に字が〈弾丸(バレット)〉な訳じゃねえよ? ……例えガスの影響のない状態でアンタが俺を撃ったとしても、俺がアンタの頭をぶち抜く方が早い」
     両手をポケットに突っ込んでいるにも関わらずそんなことを嘯いて、バレットは誰にも咎められることなく離れを出て行った。そこでようやく思い出したように、蜂須代議士がインカムに向かって叫ぶ。
    「バレットだ!! 『暁』を盗まれた。今すぐ黒尽くめの男を追え!」
     俄かに外の気配が騒がしくなる。それと同時に、彼が乗って来たのであろうヘリコプターが羽ばたく音が鼓膜を打った。
    ――え…………?
     その音にミツキは強烈な違和感を覚えた。先程バレットがこの部屋に進入して来る直前、こんなプロペラ音はしていただろうか? いや、こんな派手な登場をしていたらそもそも警戒を強めて、彼に足を踏み入れさせることはしなかったに違いない。
    ――とすると、あのヘリコプターはフェイク……バレットは別の手段で、多分徒歩か近くに待機させた車で逃げる!
     麻酔ガスが抜けるのは早かった。恐らくは軽く足止めさせるためだけの大して害のないものだったのだろう。まだ少し痺れた感じはあるものの、走れないほどではない。いくら出勤初日でぴしりとした服装が良かろうと思ったとは言え、二度とこの職場でハイヒールは履くまい、とミツキは心に誓った。全力疾走出来なければ、様々なことが手遅れになる。
    「おい、お嬢ちゃん!!」
    「高台寺さんはそっちをサポートして下さい!」
     こう言う場合独断専行は良くないのだろうが、口で説明をしている暇はない。叫ぶ高台寺を振り切って、立ち上がったミツキは書斎を飛び出した。


    * * *


     ガチャリ、と助手席のドアが開き、ロキは読んでいた本から視線を上げた。
     乗り込んで来たのは頭から爪先まで黒尽くめの青年――先程蜂須(はちす)邸から逃げおおせた怪盗バレットである。今はさすがにガスマスクを外しており、代わりに漆黒のサングラスがその双眸を隠していた。
    「お帰りなさい、閃光(ひかり)。首尾はいかがでしたか?」
    「問題ない。今日の仕事は終わりだ。帰るぞ」
    「はい。お疲れ様でした」
     ロキがギアを入れてアクセルを踏むと、黒い車は音もなくオート操縦のヘリコプターが去ったのとは反対に滑り出した。特に急ぐ様子も見せず、端から見ればその辺を走る普通の車と何ら変わりなく見えるだろう。少なくとも怪盗が乗っているようには見えない。
     バレットこと天狼閃光(てんろうひかり)は当たり前のように上着のポケットから煙草を取り出すと、一本をくわえて火をつけた。独特の匂いがする紫煙が車内にふわりと広がる。
    「そう言や、一つだけ想定外だったぞ……文保局の連中が来てやがった」
    「え……」
     用意周到に集めた情報の中にそんな憂いはなかったはずだ、とロキの顔が僅かに強ばる。が、その不安を払うように手を振って、閃光は窓の外へ視線をやってから言葉を続けた。
    「どんだけ数がいようが問題ないけどな。形だけ揃えた感じだったし……向こうが本気出して来たら、まだそれなりに手間取ってるだろうよ。ただ、今まで傍観を決め込んでた奴らが首突っ込んで来るとなると、多少面倒くせえことにはなるな」
    「その代議士さん、自分が捕まってでも僕らに『暁』を渡したくなかったんですかね?」
    「逆だろ。自分が捕まらねえと解ってるから、俺を餌に更なる恩を売ろうとしたんだろうよ。〈文化革命〉だ何だと気取ったところで、その力と価値を誰より知ってるのは上の連中だからな」
    「…………大丈夫ですか? 閃光」
     前を見据えたままではあったが、ロキは心配そうに静かに問うた。
     が、隣の主人は事もなげに煙草をくわえた口端を持ち上げる。
    「別に? 上等じゃねえか……俺は目的を遂げるまで今さら退かねえよ」
    「…………はい」
     不敵に笑ってそう告げる閃光に、ロキは小さく笑みを浮かべて頷いた。
     例えどんな状況になったところで、立てた誓いに変わりがあるはずもない。閃光がその道を進むと言うのであれば、ロキは誠心誠意自分の全てでもって支えて仕えるだけだ。
     ほんの刹那だけその精悍な横顔に意識を向けていた瞬間、視界に何かの影が過ぎった。人だ――そう理解した瞬間、咄嗟にブレーキを踏む。
     それほどスピードを出していた訳ではなかったが、車はすぐに止まれない。耳障りに空気をつんざくタイヤの悲鳴と身体に伸し掛かる負荷。大きくハンドルを切って衝突を避けようとしたため車体が派手に揺れる。それでも立て直すまでの時間は僅か数秒、まだ狭い道でなかったのは幸いだったかもしれない。
     道のど真ん中に仁王立ちしている人影の数センチ手前で、ドリフト横滑りの姿勢のまま迫って停止する。
    「すみません、閃光……怪我はないですか?」
     ロキがそう訊ね終わるよりも先に、閃光が激昂して窓から上体を覗かせる方が早かった。
    「危ねえだろうが死にてえのか!!」
     憤慨して窓から顔を出したその鼻先に、銃口が突きつけられる。
    「死なないわよ。貴方たちならちゃんと停まるって思ってたもの。私は、世界文化財保護局日本支部特務課の鴉葉(からすば)ミツキ。逃げても無駄よ」
     もう片方の手でスーツの内ポケットから身分証を取り出しながらじろりとこちらを見下ろして来たのは、蜂須邸にいた女性だった。現場で振り切ったはずの文保局員――鴉葉ミツキの思わぬ再登場は、流石に閃光とて完全なる想定外だったらしい。僅かな苛立ちにサングラスの奥で双眸を細める。
    「何のことだ?」
    「とぼけないで頂戴、怪盗バレット……蜂須邸から盗んだ指輪を返しなさい。何なら今からここで車の中も貴方たち二人も、全部引っくり返して捜索したっていいのよ?」
    「………………」
     彼女が助手席側に回り込んだ現状、強引に振り切ろうと思えば出来たかも知れない。が、生憎と昨今主流のアクセルを踏み込めばリスタート出来る型の車ではないため、どうしても引き金を引かれる方が早くなる。それはどちらにしろ得策ではない。
     こちらが黙り込んだのを見て言い分を肯定したと判断したのか、ミツキはさらにぐっと銃口を近づけて来た。
    「降りて。勿論、両手は頭の後ろに組んでからよ」
     死角でそろそろとサイドブレーキへ手を伸ばそうとするロキを制止してから、閃光は大人しく両手を上げてホールドアップの姿勢を示して見せた。
    「なるほど、お嬢ちゃんだと思って甘く見てたな。悪かった」
    「寧ろ、引っかかる理由が解らないわ。あんな、あからさまな陽動作戦」
     盾に取るようにしながらミツキが低姿勢を保ってドアを開ける。銃口は狙い違わずこちらの鼻先を狙ったままだ。
    ――ふん、それで勝った気ならやっぱり『お嬢ちゃん』だぜ……
     距離を取り、こちらが真っ直ぐにアスファルトの上に降り立ったのを確認してから、彼女はなおも銃口を突きつけて叫んだ。
    「指輪をそこへ置いて。早く」
    「へーへー、別にそんなに警戒しなくたって取って喰ったりしねえよ」
    「余計な口は叩かなくていいの!!」
     ポイッと無造作に、ポケットから取り出した指輪をミツキに向けて放り投げる。
     あまりにもぞんざいなその扱いに、まさかそんなにあっさりと手放すとは思っていなかったのだろう。慌てて手の上で数度お手玉したものの、彼女は小さな指輪をどうにか無事に受け止めた。浮かんだ冷や汗を拭って安堵の息をつく。
    「ちょっと!! 仮にも貴重な文化遺産なんだから! もっと丁寧に扱いなさいよね!!」
    「文句が多いな……そんなんじゃ彼氏に逃げられるぜ」
    「余計なお世話よ!! それセクハラなんだから!」
     眦を吊り上げながら彼女はスーツの内ポケットから手錠を取り出した。
    「午後十三時二十三分、怪盗バレット、貴方たちを窃盗及び住居への不法侵入、器物損壊諸々の罪で逮捕します」

    →続く