かちゃり、と開けた枷へ彼女の意識がほんの僅か向いた一瞬、ニヤリと悪辣な笑みを浮かべた閃光の右手は突きつけられた凶器を払いのけていた。
    「な…………っ!?」
     勢いよく叩き落とされて遠く地面を滑る得物に、ミツキの顔が青ざめる。
    「どんな物騒な代物も安全装置がかかったままじゃ、玩具と変わらねえぜ。それに文保局の得物は麻酔銃……普通の弾丸より遅い」
    「………………っ!!」
     閃光の手はそのまま細い身体を引き寄せて、彼女を車の後部座席へと押し込んだ。バタン! と無情にドアが閉められる。
    「ちょ…………っ」
     咄嗟に思考が混乱し、何が起こったのか瞬時に判断することが出来ない。
     革張りのソファーに身体を起こした時には、再び助手席に収まった閃光を乗せて車は急発進していた。公道とは言えそんなに広くない道をフルスロットル――とても飛び降りられるような状況ではない。
    「一体何のつもり!? 私を人質にしたって逃げ切れやしないわよ!!」
    「はぁ? 一番下っ端の小娘なんか人質としての価値ねえよ。っつーか、お前馬鹿みたいに一人で来ただろう? 誰が追って来てくれるんだ? それに何か誤解してるようだから言っとくが、俺をそこいらの押し込み強盗やらケチなこそ泥と一緒にすんな」
     スーツの内ポケットから煙草を取り出した閃光は、慣れた仕草で一本をくわえるとジッポーで火をつけた。
     独特の匂いがする紫煙に思わず恨めしさを滲ませて咳込むと、舌打ちと共に僅かに窓が開けられる。
    「じゃあ、一体何だってこんな……」
     が、閃光が答えるよりも早くすぐ脇の窓ガラスが音を立ててひび割れた。蜘蛛の巣状に走った亀裂の中央には丸い穴――銃撃だ。
    「きゃ…………ぁっ!?」
     頭を庇うようにして再びソファーに突っ伏す。一瞬高台寺たちかとも期待したが、そもそも文保局は警告もなしにいきなり発砲したりはしない。それ以前に実弾は滅多なことでは使わないはずだ(と訓練で言っていたから安心していたのだ)。
     閃光はのんびりと煙草をふかしながら、
    「まあ、こう言うこった。別に捨てて来ても良かったし、今すぐ捨てたって俺ぁ一向に構わねえが、その可愛いお顔をミンチにされたかねえだろ?」
     思わず半泣きのまま激しく頷いて同意しておく。心当たりでもあるのか、毎度のことで慣れているのか、それにしてもこの危機的状況において彼は落ち着き過ぎだ。
    「閃光、どうやらお客様……蜂須代議士のところの方じゃないみたいですよ」
    「何…………?」
    「後ろの車、運転手から狙撃手からみんな外国の方です。構成は多国籍ですが」
     まるで映画のようなカーチェイスを涼しい顔でこなしながら、ロキは変わらず穏やかな口調でそう告げた。ギリギリの数センチを擦り抜けるようなステア捌きをしているくせに、一体どこにそんな余裕があるのだろう?
    「まあ、あちこちから恨まれてる自覚はあるからな。どこが来ても仕方ねえ」
    「どうしますか?」
    「どうするもこうするも……このじゃじゃ馬を力尽くで止められる前にお帰り願おうぜ。これじゃあ仕事の後の一杯も楽しめやしねえ」
     かしゃん、とシートベルトを外して伸び上がり、天井を大きく開ける。途端に荒れ狂う風が車内に飛び込んで来て、バタバタと耳元で騒ぎ立てた。
    「この俺に銃でケンカ売ろうなんざ、百万光年早えよ」
     そうこうしている間にも右側のサイドミラーは吹っ飛ばされ、車体にもいくつか牙が穿たれている。まだ致命的なダメージを負っていないのは、偏にロキの運転のお陰だ。
     弾雨降り注ぐ中、閃光は天窓から頭を出して後ろの車へ銀色の銃を突きつけた。激しく揺れる状態ではろくに狙いなど定められまいに。
    「無茶苦茶だわ」
    「どこが」
     紫煙が風に踊った。
     不敵に笑って引き金を引く。この騒ぎの中ではほんの僅かな――大半がかき消された銃声が三度。
     放たれた弾丸は狙い違わず追跡車両全ての右前輪を貫いた。
     バランスを失った車はつんのめったように大きく回転し、勢いそのままに三者がぶつかり合う。
     派手なブレーキも意味を成さず、ドンッ! と腹の底に響く激突音と、ガラスが砕け散り車体がへしゃげる無惨な音が重なった。慌てて飛び出て来た男たちに一拍遅れて、紅蓮の炎が上がる。
     その様を見届けてから助手席に座り直した閃光は、何事もなかったかのように紫煙を吐き出した。
    通常の形状とはかなり異なるフォルムのゴツい銃を掌中でくるくると回してから、
    「あ……修理費ぶん取ってやるの忘れてたな」
    「アンタ鬼だわ……」
     もしかして高台寺が真面目に彼を追おうとしないのは、一度こんな風に手痛い目に遭ったからなのかもしれない。ふとそんな考えが頭を過ぎって、ミツキは気づかれないように溜息をついた。
     が、先頭三台が犠牲になったと言うのにこちらに対する追跡を――指輪の強奪を諦めずに追い縋って来る彼らに、閃光も苛立ちを覚えたらしい。
     それにもう少し走ると大通りに出てしまう。交通量の多いこの時間帯なら、大事故は必至だ。危うい運転を強いられるロキのことも案じてだろう。短い舌打ちと共にバックミラーを睨みつけた。
    「これじゃあ埒が明かねえな……もう一発お見舞いしてやるか?」

     瞬間――
     ドン……ッ!!

     突発的な地震でも起きたかのように車体が激しく揺れた。
     が、大地に異変がないのは辺りを確かめるまでもなく、嫌な音と共に凹んだ天井を見れば理由は察せられる。何者かがどこからか、車の屋根に飛び降りたのだ。
    「伏せろっ!!」
     閃光の鋭い叫びとほぼ同時に、鋼を食い破った切っ先が車内を蹂躙した。
     勢いで座席と座席の間に転げ落ちてしまったミツキの、胸数センチ上で辛うじて停止した深い突きだ。もし普通に伏せていただけなら、ソファーに串刺しにされていたところである。
     いくら天井部分が他より装甲が薄いとは言え、並みの腕で出来ることではない。
    「振り落とせるか?」
    「努力はします」
     言うなり、ロキはギアを落として思い切りハンドルを切った。交差点に突っ込む直前のまさかの左折。車体はきれいに軌跡を描き、勢いを殺すことなく進路を変更する。大きく振り回される形となった後部座席で、ミツキは強かに額をぶつけた。
    「ちょっと!! スピード違反よ!!」
    「うるせえな! テメーはお巡りじゃねえだろうが! ルール守って命捨てる気か」
     しゅらあああっと歯が浮くような鋼同士の噛み合う音と共に刃が抜かれ、再度凶器が突き立てられる。今度は躊躇なく運転席を狙っての一撃だ。
     ロキは紙一重で躱したが、座席のヘッド部分が見事に引き裂かれた。
    「いい度胸してやがる」
     またもや天井の向こうに消えて行こうとする切っ先を追って、閃光もまた少しの容赦もなく引き金を引いた。
     貫けないのではないか、と言うミツキの心配など物ともせず、弾丸は鉄板をぶち抜いて牙を剥く。突如反撃に出られたことで驚いたのか、すぐさま次の攻撃は降って来なかった。
     が、驚くべきは閃光のその再装填の速度だ。
     どんな達人でも弾丸切れを起こせば数秒のタイムラグが発生する。それは過程を最低限にしたオートマチックのマガジンでも同じだ。
     ましてや彼の銀色の銃は回転式――いくらあらかじめセットしたものを用意したとしても、明らかに手間がかかる。しかし、ミツキはそれを閃光がいつ行ったのか確認出来なかった。
    ――嘘…………
     再度銃を構え直した閃光は、畳みかけるように引き金を引く。
     度重なる暴挙に耐えかねていた天井を再度一太刀が斬り裂くのと、振り上げた銃身がそれを受け止めるのとはほぼ同時。
     悲鳴を上げて後ろに吹っ飛んで行く天井の破片の向こう側にしゃがみ込んでいたのは、茶色の髪を短く刈り上げた三十代半ばほどの男だった。
     長剣を苦もなく操る屈強な体躯と言い、獲物に狙いを定めた鷹のような鋭い双眸と言い、見るからに歴戦の兵士然としている。
     ギリギリと拮抗する二人の力。
     どちらも無茶な体勢だ。
    「…………」
    「…………っ、」
    「閃光!!」
     ピクリと反応したのはどちらが先だったか――しかし、先に行動したのは閃光だった。
     腕からふっと力を抜いてのし掛かる重圧を捌き、銃口を頭上に向ける。翻った切っ先がその喉元を屠ろうとするより引き金の引かれる方が早い。
     咆哮と共に飛び出した弾丸に男は仰け反った。車から落下し、ゴロゴロとアスファルトの上を数度転がってからそのまま動かなくなる。
    「…………殺した、の?」
    「『避けられた』。致命傷にゃなってねえさ。落ちたって頑丈そうだし、平気だろ」
     顔を背けてずり落ちていたサングラスの位置を直しながら、閃光が舌打ちをこぼした。目の前で繰り広げられた光景に、ミツキは思わず上げそうになった悲鳴を掌で塞いで必死に押し止める。
    ――何が『バレットは今まで人殺ししたことがない』よ……たまたま上手いこと死んでないってだけでしょ!?
     これが、等々力の言っていた特務課の仕事の真実なのだろう。
     『たかたが』文化財如きのために、容易く命のやり取りが行われる問答無用の裏社会。
     仮にも自分を助けてくれた男が、敵にはこれほど容赦がないのだと言うことを肌で理解して、身体が震えた。


    * * *

    →続く