男はどうにか身体を引き摺って路地裏へと身を隠すと、懐から取り出した携帯端末のリダイヤルボタンを押した。幾度かのコールの後、聞き慣れた主人の声音が鼓膜を叩く。
    「アレンか……どうした?」
    「ボス……申し訳ありません。指輪を奪取し損ねました」
     簡潔な言葉しか出て来ない。彼はいつも報告を事実のみ最低限しか告げない男だったが、今日ばかりはその胸に澱のようなものが湧き上がって仕方がなかった。それが遠い昔に自分が捨てて忘れてしまったはずの悔しさと言う感情であることは、充分に理解していたが。
     電話の向こうは不自然な沈黙を保っていた。
     穏やかな凪ぎの海を思わせる時が、主人の一番激昂している瞬間であることをアレンは経験上よく知っている。片腕と目される自分を何の躊躇いもなく、一時の激情で切り捨てることも厭わない冷酷な主人の沈黙に、それ以上続ける言葉が出て来ない。
    以前なら背中を冷たい汗の一つでも伝っただろう。
     微かに遠い地の空気が揺れる。主人が声を立てて笑ったのだった。それだけに余計、その怒りの深さが窺い知れる。
    「へえ……お前が任務を失敗するなんて初めてじゃないか? 一体何があったんだ」
    「は……それが、思わぬ邪魔立てが入りまして」
    「邪魔立て……?」
     眉を寄せた訝しげな表情が浮かぶ。声の歪みに苛立ちが込められていた。例え面白がるような態度を取ったとしても、主人は自分の計画が狂うことが何より許せない男だ。
    「怪盗バレットと名乗る若い男二人です。片方は金髪蒼眼の長身、もう片方は黒尽くめの……恐らく日本人です。堂々と予告状を送りつけていたとかで、蜂須側を全員始末して迎え撃つには少々時間が足りませんでした。まさか我々の計画を極東島国の猿共に嗅ぎつけられた訳ではありますまいが……」
    「さてね。いかんせん閣下は不用心なところがあるからな……だが、それだけのことで尻尾を巻いて引き上げて来た訳じゃないだろう?」
     長い間の後に、変わらず穏やかな主人の言葉が続く。だが、波の立たぬ水面は感情が見えない底冷えのする恐ろしさを秘めている。
    「その男たちがどうしたんだ?」
    「黒尽くめの方が……銀色の銃を持っていました。防弾装備の我々の車を撃ち抜き、私の一太刀を受け止めることの出来る得物を。おかげで右目の神経回路をやられてしまいまして、恐れながら追跡不可能となりました」
     アレンの得物を持ってして、この世に断てぬものなどあるはずがなかった。愛刀マサムネは〈魔晶石〉で出来た〈遺産〉だ。現代文明の鉄屑など紙に等しい。いつもなら拳銃どころかマシンガン――否、例え戦車であったとしても、その持ち主ごと真っ二つに斬り裂くことなど、児戯のように容易いはずなのだ。
    それが傷一つつかなかったとすれば、あの銃も〈遺産〉であると考えるより他にない。銀色の〈遺産〉の銃を持つ男――それは、主人が長い間探していた男ではなかったろうか?
    「それで……? 他には?」
     耳元の声が僅かに上擦っているような気がする。アレンは気づかぬふりをして続けた。
    「その男……サングラス越しに一瞬だけ見えた双眸が、血のような深い真紅でした」
     ガシャン……ッ!
     受話器の向こうで何かが砕ける微かな音がした。お気に入りのワイングラスなどでなければよいのだが、とアレンは無駄な気遣いを馳せる。そのくらいで怪我をするようなことを心配する訳ではないが、あまり感情を高ぶらせては手がつけられなくなる。他の部下では抑えられまい。
     が、続いて鼓膜を打った声は、予想していたよりも冷静だった。
    「……いいだろう。一度戻って来い、アレン。詳しい話を聞こうじゃないか」
    「はい、承知しました」
    「お前の修理がすんだら、僕も共に日本へ向かう」
     見えぬことは解っていたが、主人に目礼を捧げる。楽しげな彼の声は本当に久し振りだ。けれどそれは、極上の獲物を見つけ舌なめずりをしている猛獣の笑みを思わせた。
    「ようやく逢えそうじゃないか、我が同胞」


    * * *


     もしかしたらこのまま捕まって監禁されたりするかもしれない、と言う心配は杞憂に終わり、ミツキは都内の文保局最寄り駅前であっさりと解放された。
    「ここまで来ればもう心配ねえだろ。じゃあな」
    「あの……」
    「本当は前に着けてあげたいんですけど、僕らも一応アレなので。お気をつけて下さいね」
    「そうじゃなくて!!」
     何だかそのままあっさり流されそうだったので強引に話を引き戻す。ポケットから手錠を取り出し、
    「私、貴方たちを逮捕するのが仕事なんですけど!!」
     言えば、サングラスの向こう側で閃光の双眸が僅かながら剣呑に細められた。苛立たしそうに舌打ちがこぼれる。
     本当ならここで今すぐ自分を撃ち殺して力尽くで逃げてもいいのだと言わんばかりの、そうするだけの能力がある男を前に我ながら無謀だとは思ったが、ミツキはどこかで閃光がそんな類いの人間ではないと理解していた。少なくとも無力な一般人を手にかける輩ではない。
     案の定、がしがしと頭を掻いた彼は短くなった煙草を灰皿に突っ込みながら、
    「獲物は渡してやっただろ。助けてやったんだからそれでチャラにしろ」
     そう、彼はあの逃走劇の直前に拍子抜けするほどあっさりと獲物を明け渡してくれたままである。本当に指輪自体への興味がないのか、はたまた彼に取っての目的は達成されてしまったからか。「こんなヤバいもの持ってたら、命がいくつあっても足りねえよ」と至極真っ当な意見が返って来たことにも驚いたが。
     が、だからと言ってこのままはいそうですか、と見逃す訳には行かない。盗みは盗みだ。
    「そんな訳には……!」
    「うるせえよ。そんなもの時効だ、時効。ロキ、出せ」
    「はい。それじゃあ、失礼しますミツキさん」
     ぺこりと頭を下げて、ロキが車を発進させる。追い縋ろうにも生身のままではいくらも保たず、ボロボロになった黒い車は瞬く間に遠ざかってしまった。
    「………………はあ」
     溜息がこぼれる。
    ――麻酔銃とは言え、支給品の武器なくしちゃったし、バレットには目の前で逃げられるし……散々だわ……
     初めて担当した事件の顛末がこれなど、一体何枚の始末書を書けばすむだろう。張り切っただけに余計惨めだ。慰めにもならなかったが、一応確認しておこうとポケットから渡してもらった『暁』を取り出し太陽に翳す。
    「あれ……? この指輪……」
     写真ではいまいちよく解らなかったが、蒼い石の表面にはミツキに取っては見覚えのある一角獣の紋章が刻まれている。祖母から貰った――今となっては形見でもある古い指輪に刻まれていたものとまるっきり同じだ。
     小柄な彼女の遺品はミツキには小さすぎて填めることが出来なかったため、細いチェーンを通してネックレス代わりにいつも首からかけている。
    『これは幸運のお守りよ。身につけていれば、きっとミツキちゃんに幸せを運んで来てくれるわ。大事にしてね』
     そう繰り返し聞かされていたため、ミツキはいつも肌身離さず大切にしていた。確認しようと襟元に触れ、指が滑って思わず顔が青ざめたのが自分でも解る。
    「嘘……ない……」
     あの騒ぎのどさくさでどこかに落としてしまったのだろうか? だとしたら、一体どこでかなど明確な場所は解らない。もし運良く誰かが拾ってくれたとしても、それがミツキの手元に返って来る確率は奇跡に近いだろう。
    「ああ…………もう、本っ当サイアク」
     溜息をつくのも億劫で、ミツキは髪をかき上げる仕草で滲んだ涙をごまかした。

    →続く