夜――人通りもなくなった頃約束した公園脇で待っていると、時刻ピッタリにシンジュク駅方面から一台の黒い車が姿を現した。夜闇に溶け込むような流線型のボディーラインは、随分前に流行った型だ。今ではマニュアル車など全面生産中止になっているため、マニアが血眼になって探している垂涎の一台である。
     かく言うフェイもそんな類の人間で、前時代の機械が現役で活動している様を見ると拝みたくなるほど狂喜乱舞してしまうところがあった。
    「すげー!! ヤツフサだ!! ああ……まさか生きてるうちにちゃんと動いてる稀代のレディーを見られるなんて……感激だあああっ!!」
     停止するなり駆け寄って舐めるように隅々を見て回る少年に、運転席の閃光はくわえ煙草のまま苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。愛車を弄られたくない、などと言う狭量な理由からではなく、彼としては少年が怖じ気づいてここには立っておらず、肩透かしを食らえば良かったと思っているのだろう。
    「…………テメーここに来たってことは、本当に自分がやろうとしてることの意味、ちゃんと解ってんだろうな?」
    「解ってまさぁ」
     閃光にとって危険を冒してまで〈魔晶石〉を奪う、と言う行為の何に意味があるのか、それが一体どんなものなのかフェイは知らない。考えてはみたものの、一度掌中に収めたものを時と場合に寄っては持ち主へ返したりする一貫性のなさも上手く説明をつけることが出来ない。
     けれどやはり少年にとって『怪盗バレット』は単なる悪党ではなく、某かの信念に基づいて行動している男だった。
     その彼がわざわざ裏の世界など知らぬであろう少女からオルゴールを盗み出すには、それ相応の理由があるに違いない。ここに来るまでに散々考えた答えが合っているのかどうかは解らない。が、フェイがこの場に立つことを選んだ理由は、資料から当て推量した依頼人の願いがあったからだ。そしてきっと、それは閃光が怪盗として活動している理由だ。
     ならば、自分はその信念を信じてこの弟子入り試験 を突破するだけだ、とフェイは思った。
     真っ直ぐに自分を見遣って視線を逸らすことのない少年に何を感じたのかは定かでないが、閃光は溜息混じりの紫煙を吐き出してから車内へと顎をしゃくった。
    「……だったら乗れ」
    「はい」
     フェイが恐る恐る乗り込むと、閃光はくくんっ、とギアを切り替えてアクセルを踏み込んだ。加速によって負荷がかかり車が静かに動き出す。手入れされてはいるものの奥深くまで匂いが染み着いているのか、車内は彼のくゆらす煙草の匂いに満ちていた。
    「俺だ。予定Bの通り、南条邸へガキと二人で向かう。サポート頼まぁ」
     耳に着けていたインカム越しに誰かと会話しながら、閃光はステアを左に切る。恐らくは噂で聞いた相方と言う人物だろう。成程、万が一――と言うよりは予定調和の通りにフェイが失敗した時のフォロー体制も、万全と言う訳だ。
    ――もう戻れねぇ……
     敬虔な信徒であるシスターたちは、フェイが怪盗に弟子入りしたなどと言ったら嘆くだろうか? 院長などはもしかしたら卒倒してしまうかもしれない。
    ――でも、もう戻るつもりはないんでさぁ……
     どの道いつかは己の道を決めてしまわねばならないのなら、それは今だって大した違いはない。それならば例え道理から外れていようと常識からかけ離れていようと、これだと本能が告げた道を行きたいとフェイは思うのだ。
     閃光はその道を望んで選んだ訳ではないのかもしれないけれど。
     夜の闇の中を魔獣のようにヤツフサは疾駆する。まるでそうしていなければ、壊れてバラバラになってしまうとでも言うかのように。


    * * *


     首都圏を抜けてしばらく走ると、高級住宅が並ぶ街並みが姿を現わした。その中でも一際大きな敷地を誇る建物が、今回の目標である南条グループの邸宅である。
     四方の監視カメラと合わせて、赤外線センサーまで目を光らせていると言うなかなかの堅牢っぷりだ。さすがに日本屈指の財閥系企業会長宅とあって、警備が厳しい。そのどれに引っかかっても即座にガードマンが飛んで来る仕組みになっているのだから、今回の獲物であるオルゴール以外にもフェイには想像もつかないようなお宝がこの邸内には眠っているのだろう。
     一つ手前の路地で車を停めた閃光は、短くなった何本目かの煙草を灰皿に突っ込んでバックミラー越しにフェイを見遣った。
     昼間見た時とその表情は打って変わって、先程相対した時からしっかりと眼差しに力がある。緊張はしているようだが変な力みは感じられず、それは高揚感と呼んで差し支えのない範囲のものであるようだ。
    「……どう言うルートで侵入するつもりだ?」
    「オレは旦那みたいな身体能力ないので、地味に行きまさぁ。部屋で一番大きな窓から。その下まで歩いてから登る感じですかね。一階分なら何とかイケると思いやすんで」
    「成程……まあ、堅実っちゃ堅実だな。だが、壁登りだって素人が思うほど楽でもねえぞ。監視カメラだってある」
    「それも準備はOKでさぁ」
     背負ったディパックを示して見せると、閃光の眉が興味深そうに持ち上げられた。
    「……まあいい。お手並み拝見ってとこだな。ほら、行って来い。時間だ」
    「はい、行って来やす!」
     促されて、頷き車を降りる。
     閃光は逃走のためにもここで待機するつもりなのだろう。比較的呑気な調子で紫煙を燻らせている姿を一度だけ確認してから、フェイは屋敷へと向かった。
     暗視ゴーグルを装着しながら、事前に渡されていた情報を反芻する。赤外線センサーが仕掛けられているのは外壁の向こう側約一メートル幅の四方だ。カメラを掻い潜って庭に侵入を図った賊が安心して着地したところを絡め取る、と言う二重構造のためのもので、予め解っていればどうにか避けようはある。
     高い外壁には勿論指をかけて登れそうな凹凸などない。頭に叩き込んだ監視カメラの死角を縫って足を止めると、フェイはベルトに仕込んでいたワイヤーを射出した。その先には熊手のような金具がついていて、これを引っかけてもう一度ボタンを押すと平均的な体格の大人一人分くらいなら楽々持ち上げてくれるようになっている。
    とは言え、吊られた状態でいると言うのも初めての経験である少年にとっては、例え僅か数十秒の出来事であったとしてもそれは想像以上に体力と気力を消耗するものだった。縁に指をかけて何とかかんとか壁を一つ登っただけだと言うのに、どっと疲れが全身に伸しかかって来る。
    ――まだまだこれからだってのに……しっかりしろぃ!!
     滴る汗を拭って、生きているカメラへ細工用のモデムを取りつけた。閃光の待機している車にはPCが設置されていて、その中には録画された映像を繰り返し再生するデータを入れてある。残りはダミーの張りぼてだから気にしなくてよい、と言う寸法だ。万全に見せかけているだけで抜け穴はある、と言う閃光の言葉通りにやろうと思えばどうにかこなせるレベルのミッションだ。
     とは言え、真夜中人目につかないように足場の殆んどない場所で細かな作業を行うのは酷く骨が折れた。いつもなら物の数秒で出来ることが緊張と焦りで指が滑り、何度か部品を取り落としそうになった。万が一にでもそんなことをすれば、たちまち赤外線センサーが発動してガードマンが飛んで来てしまう。
    ――大丈夫……落ち着け、焦るな……
     己の内でうるさく喚く鼓動を何度か深呼吸をして懸命に鎮めると、フェイは思い切り外壁の縁を蹴って敷地内に身を躍らせた。助走を一切つけられない状態での幅跳びは、踏切場の不安定さもあって幾分気がかりではあったが、どうにか一番の難関をやり過ごせたようだった。
    「………………っ、ぐ……」
     それよりも衝撃と体重を全て受け止める形になった足が途轍もなく痛い。着地は次回に向けての課題だな、と猛省しながらその場で蹲っていたいのを懸命に堪えて立ち上がる。ぐずぐずしている暇はない。今の物音で、自分の侵入に誰か気付いたりはしなかっただろうか? 
     壁伝いにそろそろと進んで行くものの、万が一邸内の人間と鉢合わせてしまったらどうしようかと言う思考がぐるぐる頭の中を廻る。閃光なら容赦なく気絶させるのだろうが、なるべくなら手荒なことはしたくない。
    ――どうか見つかりませんように……
     その願いが通じたのか、フェイはどうにか誰にも会うことなく目的の窓の下まで這い進んだ。
     先程と同じようにベルトのワイヤーを射出し、窓枠へがっちり固定する。外壁の縁よりも若干強度で劣る部分があるため上り切るまで耐えてくれるかの不安があったものの、実際には小柄なフェイの体重くらいではビクともしなかった。暗闇に慣れた視界で確認すると、窓自体に防犯装置はついていないようだ。そのままクレッセント錠の周辺をガラスカッターで切り抜くと、手を突っ込んで鍵を外す。
    ――侵入と脱出合わせて十二分、現場には三分……
     それが閃光から示された限界時間だ。長く留まれば留まるほど、誰かに見つかり計画が失敗する確率が跳ね上がると言う。腕時計を見遣ると予定時間ぎりぎりで事は進められている。よし、と息を吐いてフェイは室内へ視線をやった。
     スライドさせて開いた窓がからっ、と微かに音を立てる。誰もが寝静まった夜中のこの時間は、たかがそれだけでも必要以上に大きく響いて聞こえるものだ。
     目を覚ましてしまったのではなかろうか、とびくびくしながら中の気配に耳をそばだててみるものの、どうやら部屋の主はまだぐっすり眠っているらしい。ほっと安堵の溜息をついて殊更慎重に窓を開けると、フェイは音を立てぬように細心の注意を払いながら床に降り立った。
     洋室のフローリングは気をつけねばならない、と言われていた通り、靴底には防音のために加工を施してある。あとは先程からうるさいくらいに打つこの鼓動の音に惑わされぬことと、どう頑張っても荒くなる呼吸を気取られぬようになるべく抑えること、と閃光から指摘されたことを思い出して、どうにか緊張を逃そうと努める。
     他人の部屋に侵入するなんて――況してやこんな疚しさの言い訳の出来ない時間帯に、だ――例え何も悪いことをしない前提であってもその罪悪感を完全に消すことは、初仕事のフェイには出来ない。
     未知の領域を恐れるのは生物としての本能だ。
     それを掻き消すには何があっても対処出来ると言う自信――幾多の場数を修羅場を潜ることで培われる圧倒的なまでの経験値から来るものでしかない。が、寧ろその危機感を失った奴は必ず失敗する、と閃光は言った。
     急げ、だが焦るな。
     その一言を必死に念じながら少しずつ少しずつ目的のベッドサイドへ近付いて行く。
     ベッドの膨らみ――布団を被っているせいで、予め写真で確認していたオルゴールの持ち主である綾香の顔は見えない。けれど、その方がフェイにとっては幸いだっただろう。きっと本人を見てしまったら、とてもではないが目的の品を盗み出したり出来ない。
    ――そのまま寝ていて下せえよ……
     すぐ傍らで眠る少女にそう祈りながら、フェイはその横をそろそろと移動する。テーブルの上には言われた通り小さな箱が置かれていた。
     散りばめられた宝石の中で、一際蒼い〈魔晶石〉が輝きを放つ時価数億の宝。
     こんなところに無防備に置いておくなんて、もしかして彼女はその値打ちを知らないのだろうか? 万が一傷でも入れてしまったら閃光に何と怒鳴られるだろうか、と緊張から込み上げて来る唾を飲み込んで、フェイはゆっくりとそのオルゴールに手を伸ばした。


    →続く