そして、今――
     舞台には『クリスティーヌの涙』を手にしたクロエが立っている。純白の、花嫁と言うには些か華美なデザインの金糸銀糸で彩られたドレスの裾を翻して中央に歩いて来た彼女は、今までになく背筋をぴんと伸ばし、自信に満ちた笑みを浮かべて彼を見遣った。
     昨日までの大人しそうな控え目の雰囲気はどこへやら、どんな顔をしてどんな風に立てば一番自分が綺麗に見えるかと言うことを熟知しているクロエもまた、歌姫であり女優であり、それ以上に女だった。
    「来ないのではないかと思っていたよ……私の姿を見れば、お前もきっと逃げ出すに違いないと、たった今の今までそう思っていた」
    「そこいらの、生半可な覚悟の女と一緒にしないでちょうだい。私は自分の夢のためになら、何だってやり遂げてみせるわ。貴方の妻になることも、愛することも厭わない」
     ここはオペラ座の舞台ではない。
     けれど彼女は多くの観客に見守られているかのように堂々と、そう口上を述べて見せた。歌うように舞うように、優雅な仕草でドレスの裾を摘まみ一礼をする。
     男もゆっくりとクロエに歩み寄った。
    「ならば、是非もなし。約束通りお前を妻に迎え、永遠に音楽の絶対的な才能を与えよう」
    「笑わせるぜ。下らねえ三文芝居はそこで終わりにして貰おうか」
     不意に割って入った台詞に、男とクロエは揃って頭上を見上げた。低いけれどよく通る力強く張りのある声――自信に満ちた口調。視線の先、舞台の照明の上には人影があった。
    「ここからはこの怪盗バレットの華麗なるショータイム、そいつを置いてさっさと帰んな」
     バレット――閃光はかなりの高さを物ともせずにそこから宙に身を躍らせると、くるりと一回転して床の上に着地した。その手には既に馴染みの銀色の銃が握られていて、ぴたりと男の心臓に狙いを定めている。
     しかし、男は少しも動じなかった。先日オペラ座で対峙した時と同様ゆっくりと右手を掲げ、仮面からこぼれる口元に勝ち誇った笑みを浮かべる。
    「馬鹿め……性懲りもなくまた来たのか、こそ泥が。帰るのは貴様だ。忘れたか、私は音を自在に操れると言うことを!!」
     放たれた見えない波動は、確かな衝撃と破壊力を持って牙を剥く。普通の人間の可聴域を遙かに超えたそれは、先日と同じに直接閃光の鼓膜を脳を揺さぶり、あらゆる感覚を狂わせる――はずだった。
     ドン……っ!!
     消音器でごまかそうなどと言う腹積もりなど微塵もない銃声が、舞台の静寂を引き裂いた。撃ち抜かれたのは男の心臓ではなく、掲げた手首から下がっていたブレスレット。弾丸は男の正面に立つ閃光が放ったものではない。
     華奢な鎖は呆気なく引き千切れ、蒼い宝石の嵌まったトップが粉々に砕け散りながら宙を舞う。
    「な…………っ!?」
     手を伸ばすも、指が掠める寸前でもう一つの〈魔晶石〉だったものは黒革の手袋に包まれた閃光の手が一瞬早く奪っている。そして、突きつけられる銃口。
     怪盗は男の背後に立っていた。
    「王手だ」
    「バレットが二人、だと!? 一体どうやって……」
    「そりゃお前、片方は偽物に決まってんだろうが」
     ニヤリと悪辣な笑みを浮かべて閃光は笑う。その視線の先で、始めに飛び降りた方の閃光がバサリと変装を解いた。下から露わになったのは金髪蒼眼の青年――怪盗バレットの相方を勤めるロキだ。
    「すみません、コレ偽物なんです」
     ロキが引き金を引くとその先からはぴゅーっと水が出て来る。が、背後の閃光が向けている銃は本物だ。そして、彼が拳銃遣いとしては超一流であることは裏社会に生きる者なら誰でも――例えその噂を知らずとも、先程の一撃を見れば解る。
     〈魔晶石〉がなければ男は音を操ることは出来ない。形勢は一気に逆転し、今この場を支配しているのは閃光の方だった。
    「『クリスティーヌの涙』を寄越せ、クロエ・ヴォーティエ。俺は別にお前らに危害を加えようってんじゃねえ。そいつは〈世界政府〉が所持を禁止した〈魔晶石〉が嵌ってる。お前がそれを持つってことはどう言う意味か……解るな?」
     力尽くで無理矢理奪ってしまうのは簡単だ。けれどせめて彼女の意志で諦めて手放して欲しいと言う願いを込めて、閃光は銃を持たない方の手をクロエに差し出す。
    「黙って俺に渡してくれ」
    「嫌よ」
     澄んだ声は決して大きくなかったが、けれどハッキリときっぱりとクロエは閃光の言葉を拒絶した。
    「貴方に渡す謂われなんかないわ。やっと……やっと私の手に巡って来たのよ! 私がどれほどこの瞬間を待ち続けたことか!!」
    「やっぱり……あの時首飾りを盗んだのはお前か」
    「盗んだなんて人聞きが悪い……貴方と一緒にしないでよ。私は持ち主を失くしたものの意思を引き継いだだけよ」
    「別にどっちだって構いやしねえよ。それは人間が持つべき〈力〉じゃねえ。何の代償もなく奇跡やチャンスが起きると思うか? 下手に手出ししたら、確実にテメーの精神は壊れるぞ! それでも……その上増しした偽りの才能が必要かよ?」
    「貴方には……解らないわよ」
     首飾りを握り締めながらクロエは軋んだ声を上げた。
    「どんな人間にだって一つは必ず、血を吐くほど『越えたい』と思っても越えられない壁があるのよ! 下手に才能と呼ばれる欠片がある方が、より苦しむように出来てる……例え望まなかったにしろ、そんな壁なんて易々と越えて行ける貴方と私とは違うのよ!!」
    「…………」
    「自分の実力じゃなくていい……〈魔法術〉の力に頼ったって、道具の力に頼ったっていい!! 私に取ってはあの場所に立ち続けることにこそ意味があるのよ!! やっと掴んだチャンスなの!! いつも二番手だった私がスポットライトを浴びることが出来る最後のチャンスなのよ!!」
     魂を振り絞るような叫びと共に、クロエの双眸から大粒の涙がこぼれ落ちる。それは表現者特有の価値観ではあるのだろうが、確かに万人に共通する挫折感ではあった。
     己の限界を自覚した時、人の取る行動パターンはいくつかに分かれる。
     諦めてその場で終わらせてしまうか、現状の位置で妥協してしまうか、まだ頑張ろうと足掻くか――そのどれもを選ばないなら、彼女のように他力本願に縋るしかないだろう。
     閃光は溜息混じりに紫煙を吐き出すと、サングラス越しに容赦なく侮蔑する眼差しをクロエに投げつけた。
    「だったら、テメーは一生一流止まりだ。テメーが目指してる超一流には、どんな力を借りたって及びはしねえさ。自分の魂賭けて必死に踏ん張ってる輩には勝てねえ……『個』をなくした芸術なんざ、量産型と同じだよ。価値なんぞねえ」
    「な……」
    「歴史に名を残して来た稀代の芸術家たちが、当時からみんな持て囃されて来たとでも思ってんのか? 答えは否だ。多くは死して時代を経てようやくその価値を認められた。それだって万人に好かれているかと言うとそうじゃない。受け手がいろいろいりゃあ評価が別れるのは当然だ」
    ――離せよ……
     思い止まれ。今ならまだ引き返せる場所に彼女は立っている。後戻り出来る道は残っている。クロエの手から首飾りが離れる瞬間を待って、閃光は彼にしては珍しく辛抱強く言葉を重ねた。
     誰かに認められたい。
     怪人とクロエとに共通するそのひりひりと魂が焦げつくような焦燥感を知っているから。だからこそ彼女の意思で、超えてはならない一線を踏み止まって貰わねばならないのだ。もう一丁の銃を抜くような真似はしたくない。
    「私は……」
    「お前が求めているのはそんなんじゃねえだろう。何のために舞台に立ちたいと思った? 何のために歌いたいと願った? 他人の評価のためじゃねえ、お前が歌うことが好きだからじゃねえのか! 有名であることにステータスを求めるのは受け手の方だ、お前が同じところに下りてどうすんだよ!」
    「黙れ、こそ泥!! 盗むだけのお前には解らない、独りではないお前には解らない! さあ、クロエ言うのだ!! 私に誓いの言葉を立てろ!!」
     閃光が撃たないと判断したのか、撃たれても構わないと思っているのか、怪人は歌姫に向かってそう吠えた。鼓舞するように、背中を押して奈落の底へ突き落とすように叫ぶ。
    「自分の手で自分の欲しい物を掴み取れ!!」
    「ジャック……『私は貴方を永遠に愛してる』」
     クロエが怪人の――ジャックの目を真っ直ぐに見遣ってそう口にした瞬間、今まで沈黙を保っていた首飾りが突然鮮やかな光を放った。目を刺すほどの眩い蒼は瞬く間に空間を浸蝕し、〈魔法術〉の術式を展開して行く。それを読まずとも目で追っていた閃光の顔が不意に強張った。彼にしては珍しく見る見る内に血の気が引いて行く。
    「こっの馬鹿…………っ!! だから言わんこっちゃねえ!!」
     激しく舌打ちをこぼして懐から黒い銃を抜くと、閃光は躊躇なくクロエに向けて引き金を引いた。が、それを予知していたかのようにジャックは弾丸を弾き落とした。その手には一体どこに潜ませていたのか金属製の杖が握られている。続く追撃も普通の弾速では、巧みに回転するステッキが彼女に牙を突き立てることを許さない。
    「ロキ、〈魔晶石〉をぶち壊せ! そいつは音楽の才能を寄越してくれるものじゃねえ、所有者の決めたキーワードを口にした使用者を、生きた人形にしちまうもんだ!!」
    「は、はい!」
     言われたままにロキは〈魔法術〉を展開し始める。
     しかし、怪人は冷たい笑みを浮かべた。
    「生きた人形とは失敬な……私の貞淑なる妻になって貰うのだ、余計な疑念など持たれては困ると言うだけだよ。音楽の才能だって嘘ではない。私が指導すれば、それを再現する才能をクロエは予め備えている。彼女はかつてない歌姫になるぞ」
    「それはテメーにとって都合のいいだけのオンナだろうが!!」
     思わずカッと頭に血の上るままジャックの胸倉を掴み上げた閃光は、目の前に突き出された切っ先に咄嗟に飛び退った。
     ステッキの中に仕込まれていた刃を振るい、なおも追い縋るジャックの攻撃を躱し、その鋭い一太刀を受け止める。鼻を突く異臭――他の人間であったなら気付かなかっただろうが、ジャックの刃には猛毒が塗られている。
    「だからどうしたと言うのだね? 人間とはいつだって誰だって、自分に都合のいい答えを道を方法を術を選んで生きて行く生き物だ」
    「彼女もそうだと?」
    「そうだとも、私もお前も例外ではない」
     ぎりぎりと拮抗するその向こうで〈魔法術〉の蒼い光はどんどん収束し小さくなって行く。ようやくロキが術式を完成させた。
    「『クリスティーヌの涙』術式へ強制介入、展開停止と分解の同時進行! プログラム構築停止しません、アクセス拒否されました!」
    「くそったれが!!」
     ジャックの腕を掻い潜って毒刃を避けると、閃光は銀色の銃口をクロエに向けた。銃声が轟くのと光が収まるのはほぼ同時――彼女の足元には弾丸に貫かれて粉々に砕けた『クリスティーヌの涙』の欠片が散らばっている。
     体勢を崩しながらの銃撃に、飛び込んだ床で一転した閃光へジャックは機を逃がさず毒刃の牙を突き立てた。
    「閃光……っ!!」
     咄嗟に身体を捻って急所への一撃は避けたものの、毒は即効性の強いものだったのかたちまちに全身の神経が灼かれるような激痛が走り、胃の腑の奥から込み上げた熱い血を堪え切れずに吐いた。視界が歪み、意識が遠のく。
     立てない閃光と駆け寄るロキを一瞥して、ジャックは立ち尽くしたままのクロエへと自信に満ちた足取りで近付いた。
    「さあ、クロエ。その可愛い口唇でその美しい声で、私を愛していると言っておくれ」
    「『貴方を永遠に愛しているわ』」
    「どのくらい?」
    「『貴方を永遠に愛しているわ』」
    「私も海より深くお前を愛しているよ、クロエ」
    「『貴方を永遠に愛しているわ』」
     何を言おうと紡がれる返事はまるで機械のように無機質な契約の言葉。
     彼女の焦点の合わない虚ろな双眸は、決してジャックを見つめたりはしない。それどころか光を失った瞳は、まるで意志や自我が失くなってしまったかのごとく茫洋として、何の感情も伺えなかった。
    「違う……」
     成立しない会話に業を煮やしたのか、ジャックは仮面の奥の眼差しに苛立ちの炎を滲ませて腕を振り上げた。
    「違う違う違う違う違う!! 私が欲しいのはそんな作り物の愛の言葉ではない!! 万人に囁く偽りの睦言ではない!! 私が欲しいのは、お前の、魂を込めた心底からの言葉だ!!」
     しかし、その掌がクロエの頬を打つ前に閃光の手がそれを受け止めた。
    「…………貴様っ、」
    「もういいだろう」
     深手を押して紡ぎ出したその声はかなり軋んでいる。暴れ出そうとする本能を懸命に押さえつけているためだろう、浮かんだ表情が苦しそうなのは傷のためばかりではあるまい。
    「もう充分だろう……愛情ってのは何かと引き替えに得るもんじゃねえ。才能ってのは何かと引き替えに得るもんじゃねえ。お前たちが手に入れようとしたのは、どっちも下らねえ紛い物だ」
    「……黙れ」
    「自分たちを飾って偽って騙して打算の末にそんなもの手に入れて満足かよ? どうせ足掻くなら、どうせ苦しむなら、何でもっと他の道を選ばねえ!? 何で胸を張って生きて行く方を選ばねえんだ!?」
    「黙れ!!」
     激昂したジャックのステッキが振り被られる。
     しかしそれが再び閃光を屠るより早く、一発の銃声が全てを決めた。側面からまともに弾丸を食らった凶器は、男の手を飛び出して遥か後方の床に突き立つ。
    「そこまでよ!! 全員武器を捨てて、両手を頭の後ろに組みなさい!!」


    →続く