男は産まれついてより化け物であった。
     眼窩はこの世の絶望を生み出すための虚ろであるように黒く落ち窪み、鋭い刃で削がれたような鼻梁は呼吸するための孔しか残されておらず、薄く干からびた口唇と不揃いな歯列も見るに耐えず、灼けたように引き攣れた肌は病に冒されたように爛れ、誰しも目を逸らす容貌を持って産まれた。
     枝のような細い手足、僅かに貼りついた枯れ草のような頭髪、年齢を数えるのにまだ片手で足りるほどの時分から、男はまるで死に瀕した老人のように醜悪であった。
     人々は男を恐れ忌み嫌い畏怖し、罵倒の言葉と謂われない暴力を投げつけては遠ざけた。実の母親でさえ、彼を屋根裏部屋に押し込めただけでは飽き足らず、常にその顔を仮面で覆っていることを強制した。
    「どうしてお前はそんなに醜いの!? どうしてそんな化け物みたいな姿なの!!」
     ヒステリックに泣き喚きながら酒瓶で殴られる度、幼い頃は許しを乞うて震えていたように記憶している。けれどやがて成長し、自分がどれほど理不尽な憎悪に晒されているかを理解した時、男の胸に沸いたのは激しい怒りだった。
     望んでこんな風に産まれた訳ではない。
     望んでこんな風な姿になった訳ではない。
     一体誰が好き好んでこんな境遇に身を窶すだろうか?
     全てが憎らしかった。
     自分を醜いと言うだけで拒絶する世界など、粉々に壊れてしまえばいいと思った。
     そしてある日、神が気紛れにその願いを聞き入れてくれたかのように、呆気なく男を取り巻く世界は壊れた。火事で自宅が全焼したのだ。母親の寝煙草の火の不始末が原因だった。泥酔していたのだろう彼女は、逃げることなど出来ずあっさり焼け死んだ。
     男は自由になったのだ。
     が、それはまた新たな苦しみの始まりだった。学校へ通わせて貰えなかった彼は、読み書きを始め『ニンゲンのセカイ』で生きて行くために必要な術を何一つ知らなかった。当然、仕事になど就けるはずもなく、男は再び闇の中へ逃げ帰った。そこに戻るより他、彼に生きて行く術はなかったのだ。
     そうして絶望の中を彷徨っている内に、やがて男は捨て置かれた礼拝堂へ辿り着いた。何故あの時死んだのが自分ではなかったのか、と常に陰鬱な気分に苛まれていた彼は、この日運命の出逢いを果たす。
     パイプオルガンだ。
     一体これは何だと爪弾いた鍵盤の不思議な音色に、男は一瞬にして心どころか魂の全てを奪われた気分だった。こんな素晴らしいものが存在していたのかと、初めてこの世界に感謝した。それからだ。全てが鼓膜に突き立てられる凶器に等しいと感じていた世界の音は色付き、美しい旋律を奏で始めた。些細な雑音にも音階が存在することを知った。そう、音楽を学んだことなどない彼には絶対音感があったのだ。
     男はたった独りで曲を作り上げた。誰に教わる訳でもない、ただ己の本能と感性だけで作り上げられたそれはさながら、彼の魂で直接相手を殴りつけるような、激しくも物悲しい哀愁感溢れるものだった。一つ作っただけでは飽き足らず、男は己の内から込み上げる衝動のままに曲を作り続けた。
     そんなある日のことである。
     いつものようにパイプオルガンに向かい、鍵盤を叩いていた時のことだ。誰もいないはずの礼拝堂の中にパチパチと一つ拍手が響いた。
     慌てて振り向くとそこには、ローブを纏った小柄な人影が長椅子に腰掛けてこちらへ賞賛を送ってくれているではないか。たった今まで気配など微塵も感じなかった。思わずがたりと立ち上がり距離を取ろうとする男に、人影は無害であることを示すように軽く両手を上げてみせた。
    「やあ、驚かすつもりはなかったんだがすまない。初めて聴く曲だけど、それは君が作ったのかい?」
     目深に被ったフードの下からこぼれたのは男とも女ともつかない声色だった。だがそこには、誰もが初っ端から男に覚えるであろう嫌悪感や畏怖は滲んでおらず、生涯で恐らく初めて真っ当な会話になるであろうその問いに、彼は不審感より戸惑いの方が勝って思わず頷いた。
    「そうだ……昨日、出来上がったばかりで……」
    「素晴らしい!! じゃあ、きっと僕は観客第一号だね。他にも何かあったら、是非聴かせてくれないか?」
     一曲、また一曲と請われるままに男は自分の作った旋律を奏で続けた。いつの間にか手持ちの曲だけでなく即興で新しいメロディーを作り、夢中で鍵盤を叩き続けた。頭も心も空っぽにして、これほど純粋に音楽の渦に身を沈め全てを委ねて没頭したのは初めてのことだった。
     自分の全てを出し切って、彼がぐったりと椅子の背もたれへ身体を預けた時、礼拝堂の中を橙色に染めていた夕陽は当の昔に姿を消し、冴え冴えと蒼い月が皓々とした光を投げかけていた。
    「この感動を……何と言葉にしていいのか解らないな」
     途中から黙って聴いていた人影はそう言って立ち上がると、ゆっくり男の方へと近付いて来た。
    「君はどうしてこんな場所でその才能を眠らせているんだ、勿体ない……もっとたくさんの人間に聴かせるべきだ」
    「何を馬鹿なことを……見れば解るだろう!? 私のこの外見を!! 道を歩けば誰もが悲鳴を上げて逃げ出し、犬からは牙を剥かれ、皆から恐れ嫌われ避けられるこの薄汚い化け物の殻を持つ限り、私はニンゲンのセカイでなど生きては行けぬ!!」
    「真の芸術を前に外見の美醜など関係あるものか!! 君が作った曲はこんなにも素晴らしい、清らかな魂がなければこれほどのものは作れない。もっと自信を持て、君は間違いなく天才だ」
     嘗てこれほどまでに自分を褒めてくれた者がいただろうか? これほどまでに真正面から向き合って相対してくれた者がいただろうか?
     歓喜が全身を駆け巡り、得も知れぬ幸福感と快感がぞくぞくと細胞を沸き立たせたものの、産まれてからこの方こちらの言葉など聞こうともせず、謂われない理不尽な暴力に苛まれて来た男は、俄には人影の言葉を信じることが出来なかった。
     だが、構わず畳みかけるように言葉は紡がれる。
    「それに君はもっと多くの世界を知りたいとは思わないのか? もっといろんな音を聞いてみたいと思わないのか。君の作った曲を誰かに歌って欲しいと思ったことは?」
     凍てついた大地を溶かすようにその奥底に眠る種子を芽吹かせるように、その声は彼の凝り固まった心を溶き解していく。それはずっと、誰かに必要とされたい男が欲しかった言葉だった。ずっと望んでいた願いだった。
    「僕ならそれを叶えて上げられる。ほら、これを上げるから使ってごらん?」
     そう言って人影がローブの懐を探って取り出したのは、豪奢な作りの首飾りとシンプルなブレスレットだった。そのどちらにも男が今まで見たこともないような、美しく蒼い宝石が散りばめられている。
    「どうして……」
     差し出されるがままに受け取ってみたものの、男は不審感が湧くのを止められなかった。今まで誰かにこんなに親切にして貰ったことなどなかったからだ。
     奥深く本能にまで根付いた他者への恐れと嫌悪感が、喧しく警告音をかき鳴らす。きっとこれは罠だ。自分をハメて晒し者にし、嗤うための嘘に違いない。そうでなければ己を哀れむが故に、自らが作り出した悲しい妄想に違いない。
     期待などするな。
     夢など見るな。
     現実は常に男の敵だ。
     が、人影は相変わらず飄々とした態度でにこりと――フードで隠せていない口元だけではあったが、小さく笑みを浮かべてみせた。
    「僕は〈魔法遣い〉だからね、呪いをかけられた化け物には優しいのさ。君の才能は殺すに惜しい。だから僕が〈力〉を貸そう……君の世界を『作り直して』上げるよ」
     何も知らなかった男を自称〈魔法遣い〉は闇の中から連れ出して、オペラ座を始めパリスのどこにだって行ける秘密の地下道を教えてくれた。譜面の書き方を教え、様々な楽器の音色と弾き方を教え、世界に散らばるいろいろな言語を文字を教え、表現の幅を世界そのものを押し広げてくれた。
     渇いた男の魂は与えられれば与えられるだけ全てを吸収し、また新たな作品を作り出しては〈魔法遣い〉を喜ばせた。
     だが、人の欲望は際限を知らない。
     いくら素晴らしいものを手に入れようと満ち足りた気分になるのは一瞬だけで、次の瞬間にはもう別の何かを探して躍起になっている。彼もまた例外ではなかった。
     どれほどその才能を褒め讃えられても、独りであることに耐えられなかった。〈魔法遣い〉は常に傍にいて、共に時間を過ごしてくれる訳ではなかったからだ。いつ自分の才能に作り出すものに飽きて足が遠のき、二度と男の根城の扉を叩いてくれなくなるだろうかと思うと、恐ろしくて眠れない夜が続いた。
     故に彼は自分に永遠の愛を誓い、共に素晴らしい音楽を生み出せる伴侶を求めるようになった。
     だが、彼は知らなかったのだ。
     童話において姫を助け、王子を導き、化け物の呪いを解く〈魔法遣い〉と言う存在は、同時に全ての元凶である害悪であると言うことを――


    * * *


    →続く