世界はいつだって理不尽で不条理だ。
     生まれで、血筋で、地位で――その時誰かが勝手に定めた物差しで確固たる序列が決められ、それを覆すことは抗うことは許されない。逆らう者は異を唱える者は、いずれ淘汰され虐げられて握り潰される運命にある。
     この部屋に閉じ込められてから、一体どのくらいの時間が経ったのだろう? もう何か月もずっとこうしているような気もするし、まだほんの何分かしか過ぎていないような気もする。あるいは自分以外の他の全てが止まってしまっているのか。
     通風と明かり取りのための小窓があるとは言え、地下にあるこの懲罰房は常に闇に包まれており、時間の感覚が皆無だ。おまけに終始溝(どぶ)のような黴臭く澱んだ臭いが鼻につく。
     普通の牢獄なら、思い出したように食事が届けられることで、どうにか時間が流れていることを確認出来るのだろうが、反省を促すためこの鉄の箱に押し込められた輩には、そんなお情けすらない。
     ぶち込まれる前に数人がかりで寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受けた際の傷が、じくじくと痛む。流血はさすがに止まっていたものの、こんな不衛生極まりないところに転がされたままでいると、膿んでそこから腐り落ちてしまいそうな気がした。
    ――くそったれが……ここから出たら、あいつら全員ぶっ殺してやんぜ……
     ぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、カゲトラは胸中で何度目になるか解らない言葉を吐き捨てた。
     何もない暗闇を睨み据えると、記憶のまだ新しいところに刻まれている胸糞悪い同僚たちのにやにやとこちらを蔑んだ笑みが、浮かび上がって来るかのようだ。
    ――俺ぁ、間違ってねえ……絶対ぇ間違ってねえ!
     反政府組織のアジトに踏み込んだ際、同じ部隊の連中は逃げ遅れた女性たちを慰みものにしようとした。神聖たるヒノモト帝国に仇なす売女は獣と同じ、とまだ年端も行かない少女すらいたと言うのに、戦闘で滾った己の血を静めようと牙を剥いたのである。
    「テメーらの方がよっぽど獣じゃねえか、士族のくせに恥を知れや!!」
     苛立ちと怒りのまま、取り敢えず一番手近にいた輩をぶん殴って制止の声を上げたまではよかったが、その相手がよろしくなかった。
     部隊を率いる隊長だったのだ。おまけにそいつは士族の中でも、軍の要職を歴任するような名家の息子である。
     取っ組み合っての大乱闘を聞いて他の部隊が駆けつけたせいで、その場はどうにか事なきを得たものの、帰隊した途端にカゲトラは軍法会議に引っ立てられた。
    「父上にだって殴られたことなんかないのに!!」
     青痣と折れた歯を晒しながらそうこちらの非を叫ぶ下衆に、もう一発ぶち込んでやろうかと拳を握り締めたものの、身分制度の徹底されたこの国で、下の者が上の人間に歯向かうことは即ち死を意味する。
     ましてや階級の厳しい軍隊組織の中で、上官の言葉に逆らえばその場で手討ちにされても文句は言えない。
     斬首は免れまい、と誰もが思う中実際に告げられたのは、同部隊員による直接制裁と懲罰房での謹慎と言う信じ難いほど軽い罰だった。罪状は『命令違反』でも『上官傷害』でもなく『隊内風紀を乱した』と言う取ってつけたような名目である。
     まあ、その『直接制裁』の中で死んでしまったとしてもそれはそれでやむなし(殺処分の手間すらかけたくないのが本音だろう)、もしくは先の作戦で士族とは名ばかりの、刀などろくに握ったこともないような坊々揃いの部隊を一人も死なせず連れ帰ったのが、他ならぬ悪たれ上がりのカゲトラだったためかもしれない。
     とは言え許されてここを出ることになったとしても、もう彼らと同じ場所には立ちたくなかった。向こうだってどの面を下げてこちらを迎え入れると言うのか。
    ――最悪除隊……いや、何やかんや理由をつけて詰め腹切らせるつもりかもしれねえな……
     望んでここに身を置いている訳ではないとは言え、こんなところでぼろ屑か塵(ごみ)のように死ぬために今まで戦場を生き残って来た訳ではない。
     悪たれのままでも似たような最期を迎える羽目になったかもしれないが、何もなさぬまま生きた意味もないまま、一方的に喰われる側のままでいるのはごめんだった。
     どうにかしてこの檻を食い破り、外へ出なければ。
    ――身体が鈍った……だからって鍛練出来るほどの余地も余力もない……さて、どうしたもんか……
     懲罰房は一畳ほどの広さしかない。それに自覚がないだけでもしかすると、生物として限界ぎりぎりのところにいる可能性もある。
     が、あれこれ考える時間はそれ以上なかった。
     遠くからかつこつと、硬い軍靴が石畳を踏み締める音が微かに響いて来たのだ。始めは階段を降りるように頭上から、そしてゆっくりとこちらへ近付いて来る。一人ではない。少なくとも三人はいるはずだ。
    ――こりゃいよいよ観念しろってことかね……
     出入口は一つ、逃げ場どころか身構えることすら儘ならない。武器になりそうなものもない。袋の鼠とは文字通り、今の状況を言うのだろう。
     やがて足音はカゲトラの懲罰房の前でぴたりと止まった。がちゃがちゃと重たい頑丈な鍵と鎖が外される、音。
    「…………」
     歯の浮くような軋んだ音を立てて分厚い扉が開かれる。足元を照らす携帯瓦斯(ガス)灯の蝋燭の炎は、覚束ないほど僅かな光源であるはずなのに、長らく明るいものを見ていないカゲトラの目には、まるで鼻先へ太陽を突きつけられたかのような眩しさをもたらした。
     もっともその『太陽』だってカゲトラの世代では寝物語のお伽噺、実際目にしたことは産まれてこの方ただの一度だってありはしないが。
     いとも容易く視界を奪われ、動きを制限され全てを掌握されてしまったカゲトラの耳に、扉を開けた何者かが音も鋭く踵を合わせたのが届く。
    「大佐閣下に敬礼!」
     言われたところで、こちらに礼儀を払う義理などない。
     そんな不遜な態度を取るから、生意気だの所詮平民の駄犬だのと目をつけられる原因になることは解っていたが、カゲトラには命を懸けるべき相手は誇りを預けるべき相手は、階級や身分や年齢が上だからと言うことは理由にならない。
     礼を尽くすか否かくらいは、己の耳目で決める。
    「大佐閣下に敬礼!」
     苛立ったように再度命令されたものの、それを遮ったのは当の小柄な初老の男本人だった。
    「あー、いいよいいよそのままで。君、まだ怪我が治ってないんだろう? 楽にして」
    「誰だ、あんた」
    「貴様! 不敬にも程があるぞ!!」
    「まあまあ、そう目くじら立てないで。私は階級こそ大佐だけど、もう半ば引退してるようなものなんだから」
     のほほんと笑いながらそう言う男は、口許に蓄えた髭や隊服の胸元に光る階級章こそ立派な出で立ちではあったものの、士族特有の居丈高な雰囲気も戦場を潜り抜けた鋭さ故の緊張感もない。どちらかと言えば縁側で猫と茶でも啜っていそうなまったり感で、恐らくこの場に最もそぐわない性質の持ち主だ。
    「私は黒須泰介(くろす たいすけ)。ヒノモト帝国軍第十三大隊隊長を務めている者だ。初めまして、カゲトラ君」
    「十三大隊……? うちは十二までしか部隊はないはずだぞ。んなもん、聞いたことねえ。それとも今度新設されるのかぃ?」
     訝しさに眉を寄せながら問うと、黒須はにこにこと人好きのする笑みを崩さないまま頷いた。
    「いや、もうかれこれ五十年はやってるかね。これでも私で三代目なんだよ。まあ私たちの任務はちょっと特殊だから……表向きには名が載らないんだけど」
    「ごじゅ……っ!? で……そこの隊長様が何だってわざわざこんな不良隊員がぶち込まれてる懲罰房に? そんなに暇なのか? あ、それとも俺みたいな馬鹿の始末をするのがあんたの任務?」
    「残念ながらどちらも違うかな。君は本日付で元々いた第五大隊からこちらへ異動となったんだ。まあ……あんなことの後じゃ、お互い気まずいだろうしね」
    「はあ、成程……で、どこも引き取らなかった厄介なお荷物を、あんたが拾ってくれるって訳か」
     溜息混じりにそう呟くと、途端に黒須の傍らに佇んでいた警邏官がその手にしていた鞭を振るった。空気を鋭く切り裂いて打たれたのはすぐ傍の床ではあったが、威嚇にしては些か乱暴過ぎである。
    「口を慎め、野良犬が」
    「まあまあ……とにかくそう言うことだから。取り敢えず一旦風呂に入って、傷の手当てをして貰いなさい。これからよろしく頼むよ」
    「立て。風呂へ行くぞ」
    「うるせえな、触んな! 案内して貰わなくても、場所くれえ覚えてるわ!」
     腕を取ろうとした警邏官の手を払い除けて立ち上がると、カゲトラはふんと鼻を鳴らしてそのまま黒須の傍らを通り過ぎた。
    「待て! 勝手な行動を取るな! 聞いているのか、カゲトラ! 単独行動は駄目だとあれほど……」
     慌てて一人がその背中を追う。その様を見ながら、残ったもう一人の警邏官は小さく溜息をついた。
    「やれやれ……こんな調子で大丈夫なんですかね」
    「いやいや彼、思ってたよりずっといいよ」
    「そう……ですか?」
    「十日。彼は飲まず食わずでこの閉鎖空間に押し込められていた。暗闇だし、誰も来なくて音も殆んどしなかっただろうし、実際体感としてはもっと長く感じたはずさ」
     ゆっくりと空になった懲罰房を見やって、黒須はなおも穏やかな笑みを崩さない。それは却って、不気味で底の知れない恐ろしさを感じさせるものであった。
    「五感を狂わされた人間って言うのは、そうそう長いこと保つものじゃない。傷のこともあったし、半分くらいは死んでるかも……死なないにしても、使い物にはならないだろうと踏んでたんだが……なかなかどうして丈夫じゃないか。君の鞭にもぴくりともしなかったしね」
    「は……恐縮です」
    「いいものを貰った、と佐々(ささ)君には礼を言っておいてくれないか。うちは殉職率が高いからね……あのくらい跳ねっ返りでちょうどいい」
     それじゃあ、と地下を後にする小さな背中にぴしりと頭を垂れたまま、男は背中を伝う冷たい汗に顔を上げることが出来なかった。