が、その抗議も虚しく、一晩寝たら取り敢えず傷は塞がっていた。何でもナナキの唾液には細胞を最大限に活性化する成分が含まれているとかで、何度か血を吸われた際のあれやこれやで、カゲトラの体内にもそれが取り込まれているのだろう、と言うのが黒須の言葉である。
    「万が一にも相手が失血死してしまわないようにするために、新陳代謝を促して血や肉を作る訳だね」
     などと胡散臭いまでに晴れやかな笑顔で説明されたが、そんなご都合主義なことがあっていいのかと突っ込みを入れたい。
     しかし誰に文句をつけようにも、実際動けるまでに回復してしまった以上調査を行わない訳にはいかなかった。
     時間はあまりにも少なく、やることだけは山積みだ。
    「次もちゃんと生きて帰って来るんだよー」
     などと無責任極まりない台詞で手を振って見送られてしまったから、蒸気四輪の操縦環(ハンドル)を握るカゲトラの顔は指名手配犯さながらに凶悪だった。
    「何じゃ、機嫌が悪いの」
    「……うるせえな。今はテメーのお喋りに付き合ってやる気分じゃねえよ」
     昨日はとにかくいろいろなことがあり過ぎた。十三大隊へ異動してから今日でまだ三日目だと言うのに、もう三年は籍を置いている気分である。怒濤のように押し寄せる、今まで知らずにいた現実に頭が着いて行かない。
     故に、カゲトラは今自分が何に対して苛立ちを覚えているのかも、よく理解出来ていなかった。
     ぎりぎりと煙草の端を噛み締めるこちらに呆れたのか、一つわざとらしい溜息をついただけで、ナナキはそれ以上言葉を重ねて来たりしなかったのは幸いである。
    ――俺は……
     自分の力を何かを守るために使いたいと言ったナナキを、綺麗事だ甘いと切り捨てた。そんな覚悟でナレノハテや陰人(オンヌ)と対峙していたら、いつかは足元を掬われる、とそう思ったからである。
     だが実際暴走した佐々を止めたのは、彼女の方だった。その生態を知らずに、何とか戻せると思っていたから捕らえようと考えたのだが、ナナキは最初に忠告してくれたではないか。
     カゲトラがそのつもりだったからと言って、何か変わったかどうかは解らない。けれど元同僚たちはもしかしたら死なずにすんだかもしれないし、何より――
    ――佐々をぶっ殺したナナキに苛ついてるなんて、筋違いも甚だしいだろ……
     窓の縁に頬杖をついて、面白くもない景色を眺めている相棒の横顔に舌打ちをこぼす。
     自分の無力さを棚に上げて。
     軍属である限り、今さらこの手を血で汚すことにいちいち罪悪感を覚える訳でもない。顔見知りのかつての上官だから何だと言うのだ。実際自分だって躊躇なく彼を屠ろうとしたではないか。その最期があまりにも無惨だったからと言って、同情するような仲でもあるまい。
     紫煙と共に腹の底に渦巻いていた感情を吐き出すと、カゲトラは操縦環(ハンドル)を左に切った。その眼差しはもう凶悪に尖ってはいない。
    「それで……今日は誰に会いに行くって?」
    「ん? ああ……コチョウと言う玖街(くがい)の顔役の一人じゃ。昨日のあの辺りは奴の縄張りだし、あの街で商売をしたら必ずその耳に入る。例えそれが、飴玉一つでも生きた人間でも……奴が暗黒百貨店と呼ばれる所以さ」
    「……暗黒百貨店のコチョウ……あああああ、嘘だろ」
    「お? 何じゃ、主でもビビったりするのか? あ、いや待て。その反応は知り合いと見た。しかも結構な深さか長さの。違うか?」
     双眸を好奇心にきらきらと輝かせてこちらへにじり寄るナナキに、カゲトラの顔は再びますますの渋面になった。が、彼女は構わずににまにまと意地の悪い笑みを浮かべながら、その袖を引くのをやめない。
    「のう、どう言う関係じゃ? 元恋人か? それとも初体験の相手か?」
    「うるせえ、黙れババア! 何であんな妖怪が元恋人やら初体験の相手じゃなきゃならねえんだ、ふざけんな!!」
    「何じゃ、面白うないの。主はもうちょっとノリがよくなった方がよいぞ、カゲトラ」
     腕を振り払って怒鳴り上げると、ナナキはむくれたように口を尖らせて助手席に座り直す。その表情は少し心を動かされるくらいには可愛かったのだが、それよりもこれから待ち受ける再会は暗く重たい雲をカゲトラの心に広げた。
     暗黒百貨店コチョウ――彼女は玖街(くがい)随一の規模を誇る廓『宵待月(よいまちづき)』の楼主であり、未だに現役の売れっ子花魁である年齢不詳の女帝である。
     それと同時にこの決して狭くはない街の中で、彼女に依頼して手に入れられぬ品はない、とまで言われる裏店の頭でもあった。帝国軍流出ものの武器から曰く付きの宝飾品、果ては違法の薬品食物、異国の動植物――そして何より、どんな用途であろうと必ず依頼主を満足させる奴隷まで。
     無論界隈の阿片売買は一手に担っているだろうから、佐々がどのくらいの頻度でどれだけどの品を買っていたか、と言うことまで筒抜けに知っているだろう。その気になれば、煙管の一振りだけでものの十分ほどあれば、顧客一覧すら出してくれるかもしれない。
     ただしそれは彼女が、生粋の反政府派でなければの話である。
     このままのこのこと真正面から阿呆のように正直に帝国軍の自分たちが訪ねて行ったら、たちまち膾斬りの上簀巻きにされて、どろどろの重油塗れのオオエド湾に捨てられるのが落ちだろう。そんな烈女の本性をナナキは知っているのだろうか?
    ――もし、コチョウが俺を覚えていれば……いや、寧ろそれだと火に油を注ぐ結果にしかならん気もするな……
     だからと言ってここを素通りして、鼻先をうろちょろしているところを引っ立てられた方が、より酷い目に遭うのは間違いないだろう。
    ――本当にこっち来てからろくなことねえわ……
     言ったところで仕方がないと腹を決め、次第に建物が現れ始めた道をひたすら東に向かって走る。


    →続く