悲鳴が上がったとおぼしき場所は、潰れた酒処の店先だった。取り壊されずに放置された廃墟の傍らには、まだ瓦斯(ガス)灯が残されたまま薄ぼんやりと鈍い明かりを放っている。
     そこに車椅子の女性と三十半ば程の男が佇んでいた。
    「おい、何かあったのか!?」
     駆けながらナナキが問うたのは、向こう側を向いたままの女性が車椅子の上で蹲るように身体を小さく丸めていたからだろう。具合が悪いだけならいいのだが、もし悲鳴を上げたのが彼女であるならば、襲われて怪我でも負ったか、何か恐ろしいものでも見てしまったのではあるまいか――
     が、こちらの心配をよそに、付き添いらしいその男はにこやかな笑みを浮かべてぺこりと会釈した。
    「あ、こんな時間までお勤めご苦労様です。すみません、騒いでしまって……何でもないんですよ、ご心配なく」
     丸眼鏡をかけた、物腰柔らかな人当たりのよい男である。白衣を纏ってきちんとした身なりをしているところを見るに、恐らく玖街(くがい)の外の人間――しかも医師だろう。
    「そんなはずはなかろう、向こうまで悲鳴が聞こえたぞ」
    「いえ、本当に大したことじゃないんです。実は彼女、先日脚が完治したんですが、怖がって歩こうとしなくて……頑張って貰いたくて、強めに腕を引いて立たせようとしたんですが、驚いて体勢を崩してしまって……本当、すいません」
     ぺこぺこと何度も頭を下げてそう詫びる男は、嘘を言っているようには見えなかった。ナナキは形のよい眉をしかめてしかつめらしい顔を作ると、腕組みをして精一杯真面目くさった態度を取る。
    「全く、紛らわしいの。そんなことは家でやれ。今この街は特に危険な状態なんじゃ。こんな時間にふらふら足を踏み入れていたら、命を落とすぞ!」
    「は、はい。すみません、すぐ帰ります」
    「……待て」
     車椅子を押して踵を返そうとした男を制したのは、カゲトラだった。
     ナナキの前にずいと立ちはだかり、鯉口を切った魔神兵装(ましんへいそう)に手をかけて、その殺意を警戒心を微塵も隠そうとしないまま男を――いや、その先の女性を見据える。
    「テメー、何喰ってやがる」
    「カゲトラ、何を……」
    「お前、あんまり鼻よくねえなあ……それとも嗅ぎ慣れ過ぎてんのか?」
     何故か馬鹿にするような視線と呆れたような溜息を投げられた。が、ナナキがかちんと反応する前に、彼の漆黒の眼差しは再び二人の人物を射抜いている。
    「現場に血がなけりゃ気付かれねえ、解らねえとでも思ったか? ナメてんじゃねえよ。テメーらからは吐き気がするほど血と臓物の臭いがする。まともな人間なら、そんな臭いが染み着いてる訳ぁねえ」
    「…………」
    「悲鳴を上げたのは別の女だな? 死体がそっくり消えちまったのは、テメーが欠片も残さず喰ってるからだ。もう一度訊くぞ、テメーらここで何してやがった」
     牙を向いて威嚇するかのようなその低音に、またいつものように怯えた顔と短い悲鳴が返って来るかと思いきや、嘆息して俯いた男は、くつくつと小さく肩を揺らして嗤い始めたではないか。
    「嫌だなぁ……本当、偶にいるんだよ。お前みたいなやたらと勘がいい奴。嫌いだなぁ……鋭過ぎる男は嫌われるって、そこの彼女に教えて貰わなかったのかぃ?」
     瞬間、発条(ばね)しかけの人形が弾かれて箱から飛び出すように、車椅子の上で縮こまっていたはずの女の身体が宙を舞った。煤けた夜目にも鮮やかな桃色の着物の袖が翻る。そこから蒸気と共に飛び出したのは、魚雷型の誘導弾(ミサイル)だった。陰人(オンヌ)から叩きつけられた灼熱玉よりも、目標物を吹っ飛ばすまで追って来るそちらの方が性質が悪い。
    「冗談きついぜ!!」
     蒸気駆動を操作して機巧を起動させ、迎撃しようと腰を落とすが、照準を合わせる暇がない。カゲトラは魔神兵装(ましんへいそう)の扱いがまだ不慣れなのだ。
    ――間に合わねえ……刀で受けるか!?
    「邪魔じゃ、カゲトラ。引っ込んでおれ」
     足蹴にぶっ飛ばされた視界に赤い軍服が割り込む。人目があるせいか、きちんと大筒の形を取って顕現した機巧を両手に構えながら、ナナキがざっと砂埃が立ち込める地面を踏み締めた。
     その楽し気に煌めく視線の先で、彼女が放った一撃が見事に誘導弾を撃ち落とし、夜の帳に紅蓮の華を咲かせる。巻き起こる熱風に煽られて長い黒髪を乱しながら、ナナキは力強い声で宣言した。
    「あれはわしの獲物じゃ」


    →続く