一番古い記憶は、噎せ返るほどに濃厚な血の匂い。
     生臭く不快であるはずのそれが、まるで芳醇な葡萄酒(ワイン)のように甘美で魅惑的なものに思えた自分は、そもそも産まれ堕ちた時、確かにヒトであったのだろうか――ふと広がる断片的な記憶より前のことは何一つ思い出せないから、自信を持って確固たる答えを返せない。
     次いで視界に広がるのは赤、紅、緋、朱、赫――その鮮やかにして深い海に浮かぶ、数多の人間の欠片。
    『だから殺してしまえと言ったのだ』
    『呪われた鬼子が……』
    『……ね、お前が死ねば……良かったのに』
     耳元で絶えず囁かれる呪詛など、とうの昔に断ち切り振り払ったつもりでいたのに。
    ――邪魔じゃ、亡霊共……わしは、主らを殺してなどおらぬ……!
    『本当に……?』
    『……本当に?』
     それらは全て己が深くに閉じ込めたはずの罪悪感の声だ。生きているべきではないと知りながら、それでもなお生きたいと願う、自分の意地汚さに対する否定の言葉だ。虚ろで空っぽな何もないがらんどうの己の内に谺して、反響する。
     ふと感じた全身に絡みつくぴりぴりとした小さな痛みで、ナナキは自分が意識を失っていたらしいことを理解した。
     一つ一つは大したものではないのだが、少しずつ確実に、己の内側へ牙を食い込ませ蹂躙してやろうとする気配が伺える。昔から悪しき存在を祓うと言われて来た銀に触れると、細胞が焼け爛れたようになってしまう自分は、やはり厭われ忌まれ疎まれて然る、人外の化け物なのだろう。
     それが――同胞を狩り、人間を守ろうとするなど烏滸がましいと、石を投げられたのはいつの話であったか。それでも浅ましく居場所を得ようと、誰かに必要だと言われたいと、愚かに重ねて来た罪を購わなければならない時が来た。
     ただそれだけのこと、だ。
     五感を鈍らせ、背筋を這い回る悍ましい気配が氷のように冷たいのか炎のように熱いのか、それすらナナキには掴めなくなっている。
     暗い地下――廃坑の片隅のようなこの部屋に閉じ込められて、一体何日過ぎたのか。始めから身体を締め上げている銀糸に加え、まるで罪人かはたまた異国の聖人のように、天井から釣り下がった金具へ磔のように固定されてしまったため、ずっと同じ姿勢を強要されている筋肉が疲労している。
     さすがのナナキもぐったりとした様子を隠せない。
     加えて玖街(くがい)の地下ならではの毒された空気の腐臭、ねっとりと肺まで冒そうとするような湿度。気付けば肌は汗ばみ隊服は湿って張りつき、冷えたそれが体温を奪う。
     何が潜んでいるのか解らない薄暗闇は、時間の経過が解らない。不規則に水溜まりを穿つ滴の音以外、生き物の気配がまるでない棄てられた――場所。
     普通の人間であったならとうの昔に、精神が崩壊しているだろう。
    ――何を、弱気なことを……
     時折脳裏に浮かぶカゲトラの強い眼差しを再度思い出して己を奮い立たせ、せめても身動ぎしようとする。が、痺れて感覚の鈍った腕はぴくりともせず、僅かに動かせた指先は銀糸に触れて、新しい傷を作っただけだ。
    ――あの悪たれは、十日耐えたのだぞ……
     しかし、ナナキは十日も血を補給せずに生きられない。せめて薬を飲めればいいのだが、それも男に取り上げられて適わない。限界を迎えてしまった己がどう暴走してしまうのか、彼女にも想像が出来なかった。総血液量の半分が蒸発してしまったら、ナナキは最早今の自分に戻ることも叶わない、本物の生ける災厄になってしまう。それは明日か、明後日か、それとも次の瞬間なのか――
     既に禁断症状は現れており、かたかたと牙が振るえて止まらない。思考能力も徐々に吸血欲に塗り潰されて行き、頭の中が真っ赤に融けて染まって行くようだ。
    ――助けなくていい……けれど、止どめは主に刺して欲しいものよの……
     長い長い時間の中で、たかが数日共に過ごしただけの何人目か覚えてもいない相棒――けれど、カゲトラは確実にナナキの中の何かを塗り替えた。何かを作り替えた。
    ――主に討たれるならば、悪くないと思えそうじゃ……
     再びナナキの意識が酩酊して沈みかけた刹那、遠くできい、と蝶番の軋む音がして扉が開かれた。
     携帯瓦斯(ガス)灯を片手に姿を表したのは、自分を拐った丸眼鏡の男だった。最小限に絞られた光源も、元より夜目の利くナナキにとっては眩し過ぎる。それでもぼんやりと不明瞭だった室内の様子が浮かび上がり、ナナキは思わず込み上げた嘔吐感を堪えなければならなかった。
     そこは手術室や実験室を彷彿とさせる場所だった。
     何かの薬品やら用途不明な器具やらが所狭しと並べられた棚が幾つも並び、机の上には顕微鏡や試験管、小型灯、計測器など様々な道具もでたらめに置かれている。
     しかし、驚くべきは部屋の中央に置かれた不銹鋼製の長台だった。
     ちょうど人が一人横たわれるほどの大きさのそれには、もはや酸化して色の変わったどす黒い血がべったりと付着しており、その脇の流し台だか手洗い場だかにはナレノハテになり損ねた者の残骸であろうものが、そのまま放置されている。例え腐り、血が摂取出来るような状態でなくとも、それはナナキの五感を急速に目覚めさせた。
     にこにこと胡散臭い笑みを浮かべて近付いて来る男を、睨みつける。
    「こっちへ寄るな。わしをあの女の餌にする前に、わしが主を餌にするぞ」
    「へえ……存外まだ意識がはっきり残ってるもんだねえ。そろそろ血が欲しくて暴れ始めてるかと思ってたけど」
     手にしていた携帯瓦斯(ガス)灯を机に置くと、男は長台を迂回して構わずこちらへ近付いて来た。ナナキは再度鋭く叱責の声を上げる。
    「来るなと言うておろうが!!」
    「そうきゃんきゃん吠えなくてもいいだろう。その糸で拘束されてる限り、君はどんなに機巧を駆使したくても起動出来ない。あとは牙さえ気をつけてれば問題ないじゃないか」
    「…………それが主を誘い込む、わしの手だったらどうするつもりじゃ」
    「自分の作ったものの威力は、自分が一番よく解ってるさ。それとも」
     瞬間、男の手首がひゅん、と風切り音を上げて翻る。いつの間にかその手に握られていた短刀の刃が、ナナキの隊服を無惨に切り裂いた。
    「ボクが実験以上の何かをするかもしれないって……そう思ってる?」


    →続く