「ん……っ、ぁ……」
     抵抗するように身動ぎするナナキを押さえ込み、身体を抱き後ろ頭を引き寄せて、上向く頤に逃げ場など与えてやらない。鋭い犬歯は瞬く間にカゲトラの口唇を舌を柔らかな粘膜を傷つけ食い破り、血を溢れさせる。
     舌先に触れたそれにびくりとナナキは身体を強張らせたものの、押し込むように舌を絡められ押さえつけられては嚥下するより他にない。
    「は、あ……んむ…っ、う……」
     やがてその味を思い出したのか、頑なだった声が甘く和らぎもっととねだるように傷口へ舌が這う。ナナキの腕が背中に回り、僅かに熱を帯びた柔らかな身体が寄せられる。貪るように一心に喉を鳴らして啜られ、いい加減理性が振り切れるかとくらり視界が歪んだ辺りで、ようやく解放された。
    「っは……あ…………カゲ、トラ……」
     その双眸は元の色を取り戻した代わりに、今にも溢れてしまいそうな涙を湛えていた。泣き出しそうなほど、困惑と後悔と安堵と懺悔といろいろなものでぐちゃぐちゃに歪んだ気弱な彼女は初めて見る。
    「…………」
     黙ってそれをしばし見下ろしていたカゲトラは、徐にナナキを放したその手で、あろうことか半ば露わになったままだった彼女の胸をわしっと掴んだ。そのまま感触を確かめるようにもにもにと揉みながら、
    「この前も思ったけど、お前着痩せすんだな。やっぱ生で見た方が乳でかぶふぉあっ!?」
    「何をするか無礼者があああああっ!!」
     思い切り振り抜かれた渾身の右拳に、本日最大の痛手を負わされてカゲトラは瓦礫に突っ込んだ。
    「ナナキ、テメー拳はねえだろ、拳は!! せめて可愛く平手にしろや!!」
    「うるさい変態! 助平トラ!! 主なんか最低じゃ!! 切っ先でなかっただけありがたく思え、馬鹿!!」
     それはまさしく洒落にならない妥協であったが、違う意味で涙目になったナナキは真っ赤な頬で力一杯叫んで返す。その顔は先程のように今にも壊れてしまいそうな危うさや、理性をかなぐり捨てた凶暴さはない。
     一つ息を吐いて立ち上がったカゲトラは、埃を払った上着をばさりとナナキに放り投げた。
    「よし、元気出したな」
    「カゲトラ……」
    「取り敢えずそれ着とけ。気が散る」
    「…………汗臭い」
    「うるせえ、馬鹿! そのくらい我慢しろ!!」
    「ふふっ、嘘じゃ。ありがとう。やはり主は体温高いのう……あったかい」
    「…………っ、」
     一回り以上は大きいカゲトラの上着はナナキにはぶかぶかであったが、託し上げそれなりに動けるように調整をしたらしい。彼女はそれ以上に苦労して全開にしていた兵装をどうにかしまうと、小さく息をついた。
     顔色があまりよくないように見えるのは、まだ体内の血が圧倒的に足りないからに違いない。とは言え、カゲトラから貰おうにもこちらも動けなくなっては不味い、と言うことで最低限の接種に留めたのだろう。
    「お前……薬があるとか言ってただろう? そいつどうした? あいつに取られたか」
    「ああ……探せば見つかるかもしれんが、出来るなら……使いとうない」
    「んだよ、不味いのか?」
    「…………増血剤を飲むと、わしは極度の興奮状態に陥るんじゃ」
     要はナナキの元々高い代謝能力を最大値まで引き上げるためのものらしいが、それは生命維持の危険だと察知した僅かに残った本能まで刺激されてしまうのだ、と言い辛そうに説明される。
     カゲトラはぽん、と彼女の肩を叩くと珍しくいい笑顔を浮かべてみせた。
    「よし、飲め」
    「絶っっ対嫌じゃ!! 主の目付きが厭らしい! そうまでせずとも、あの男を引っ立てて帰るくらいなら……」
     大丈夫じゃと続けようとしたナナキの声は、その当の男の悲鳴によってかき消された。慌ててそちらを見やれば、動く気力すらなくしていたらしい男の眼前に、一体のナレノハテが佇んでいる。彼がヒナギクと呼んでいたあの一体だ。
     しかし、何か様子がおかしい。
     本来なら男はこちらをぶち殺して来い、とでも命令を出しているところだろうに、彼らの間に漂う空気はただ喰う者と食われる者との覆しようのない摂理のそれだけだった。


    →続く