その時、唐突に闇夜を切り裂いてこちらに何かが近付いて来た。すわ新手かと得物を構え直したところで、その閃光がナレノハテの双眸などではなく、蒸気戦車が前方を照らす投光器の灯りだと気がつく。
     横っ腹にでかでかとヒノモト帝国軍章を刻んだ鋼鉄の塊は、あまりにも鈍重な動きでカゲトラやナナキとヒナギクの間に割って入ると天井部の跳ね上げ扉を押し開けた。中から出て来たのは、如何にも士族然とした恰幅のよい大柄な男である。
     その体躯すら天然の鎧だとでも言いたそうな、恐らくかつてはそれなりに前線に立ち、腕にも覚えがあるのだろう男の胸には、自慢気にきらびやかな勲章が幾つも揺れている。こちらを見下ろす小さな目は侮蔑の色で染まり、本来ならこうして出向くことすら嫌だったのだと言外に主張しながら、男はゆっくりと戦車から降り立った。
    「んだ、テメー……」
     牙を剥いて低く飛びかかるための姿勢を取る獣のように唸るカゲトラに、男はぐいと胸を反らせて鼻を鳴らした。本来なら敬礼をして然るべき場面で、確かに階級は彼の方が上だが明らかに小馬鹿にした表情を浮かべる。
    「我輩は帝国軍第八大隊副隊長比良坂照三(ひらさか しょうぞう)少佐である!! ただ今の刻限を持って、この現場での指揮優先権は第八大隊へ移行した! 第十三大隊の諸君は速やかに持ち場に戻られたし! ナレノハテ戦力削減の戦闘、実にご苦労であった!!」
     比良坂の言葉に促されるように、ばらばらと戦車から男たちが沸いて出る。彼の部下であろう帝国軍兵はあろうことか、ヒナギクではなくこちらに向かって鈍く光る銃口を突きつけて来るではないか。
     一体この事態をどこから聞きつけて来て火事場泥棒を働くつもりであるかは知らないが、これは明らかに手柄を横取りする越権行為だ。どんな面の皮の厚さをしていれば、ナナキの救出は拒否したくせに、居丈高に図々しくそんなことを大声で叫べるのだろう。
     実際に身体を張って命懸けで任務に当たったこちらを馬鹿にするにも程がある、と瞬間湯沸し器のように刹那で激昂したカゲトラは、眦を吊り上げて吼えた。
    「ふっざけんな、この豚何様のつもりだテメー!! 安全圏から見てただけの腰抜けが、どの面下げて餌集(たか)りに来てやがる!! 失せろ、この件は俺たちの管轄だ!!」
    「貴様こそ口を慎め、卑しい下民の分際で。いいか、貴様らがどれだけ地べたを這いつくばって泥と血に塗れて奮戦したところで、その戦果は貴様らが得られるものではない。我々士族のものだ。解ったらさっさと尻尾を巻いて、回れ右をしろ」
     どくん――っ、
     再び響く不吉な音。それはまるで、悪夢の始まりまでの秒読みのような気配。総毛立った全身の細胞が逃げろと訴えて来る。明らかにこの危機的状況を察知出来ていない第八大隊は邪魔だった。
     これ以上ないくらいお荷物で足手まといだった。
     それでも、こんなくそったれでも見殺しにする訳には行かない。奴らはまだ人間なのだ。守らねばならない対象なのだ。
    「手出しは無用じゃ。ご足労いただいて申し訳ないが、お帰り願う」
     血の気の失せた青白い顔のまま、ナナキがカゲトラの前に出る。ぶかぶかの身の丈に合っていない上着と軍帽に、比良坂はいくらか怪訝さを覚えたらしかったが、いつもより割り増しで壮絶な迫力を湛えているナナキの美貌にごくりと唾を飲む。
    「ほう……貴様、上官に刃向かう気か?」
    「死にたくなければ今の内に逃げた方がよいと、言うておるのじゃ。首が落ちてから泣いても、わしは知らぬぞ」
     カゲトラとは違って、あまり他隊と進んで衝突や揉め事を起こそうとする訳ではないナナキにしてはきつい口調だった。佐々の時もそうだったが、彼女は自分以外の何かが危険に晒されることを酷く嫌う。
    「ぬふふ……勝ち気な女は嫌いではないぞ。屈服させた時、そんな女ほどよがっていい声で啼くものよ」
     舌なめずりをしながら比良坂がナナキの髪に触れようと無防備に手を伸ばしたのと、その背後で無数の束になった鉄索(ケーブル)から蒸気戦車が吹っ飛ばされて紙細工のようにぺしゃんこになるのと、抜き打ちで機巧を弾き落としたナナキが、そのまま地面に突き立てた切っ先を起点にしてふわりと体躯を宙に踊らせるのは、ほぼ同時だった。
     遅れて、半ば埋まった廃坑入口の瓦礫に突っ込んだ戦車が凄まじい音を立てて爆発し、炎と煙を撒き散らしながら辺りを席巻する。
    「ひ、ぃ…………っ!?」
    「だから言うたであろう。わしら十三大隊の管轄である『ナレノハテの眼前』は死地――覚悟を持たぬ者は帰った方が身のためじゃ、とな」
     揉みくちゃに吹っ飛ばされた第八大隊の連中が、どのくらい無事なのかなど確かめている術はない。
     そのまま落下する重力で加速して、綺麗な踵落としで伸びて来た機巧をへし折ったナナキは、くるりと身を捻って着地して、霧と爆炎の向こうに佇むヒナギクを見やった。いくつかの鉄索(ケーブル)を捌き、その背中を守る位置で足を止めたカゲトラもつられてそちらに視線を向ける。
    「おいおい……ちょっ、待てよ。何だ……あれ……」
     カゲトラが思わずそうこぼしてしまったのも無理はない。二人の視線の先――夜闇の深き霧の中に『聳えて』いたのは、ヒトの形など当に失った小山のような陰人(オンヌ)の影だった。


    →続く