途方もないものを目にしてしまった時、人は呆気に取られ立ち尽くすしか術がないのかもしれない。得物を構えることも忘れて、カゲトラは街中に突如として姿を現した陰人をただただ見上げていた。これは――海の向こうから現れるものではなかったのか。
     配属初日に見た個体と比べると幾分小さいものの、陰人は周囲の瓦礫や逃げ損ねた第八大隊の人間をずぶずぶと飲み込みながら、徐々にその大きさを増している。
     一体どう言う内部構造をしているものか、四方に伸ばした鉄索を突き刺してあらゆるものを吸い上げ取り込んでいるようだが、その無作為さと言うか無差別さと言うか、とにかく触れたものは全てと言わんばかりの勢いは簡単に止まりそうもなかった。
     迫り来るそれらに慌てて踵を返して、ちらりと背後に視線を投げながらナナキは眉を寄せた。
    「あやつ……あの男の血で覚醒したか」
    「一体どうなってやがる……ヒナギクって、あいつナレノハテだろう!? どう増強したら陰人になるんだよ! 昇級なんてもんじゃねえぞ、あれ!!」
    「ヒナギクは同族を――ナレノハテと化した娘たちを喰らって血を啜っておった。本当なら主の血と、わしの血から作った魔神兵装(ましんへいそう)を組み込んでマガツヒトにする予定だったようだが、一般人であるあの男の血を飲んだために陰人(オンヌ)と化してしもうたんじゃろう」
     厳密な違いや発祥の仕方など、ナナキも詳しく知っている訳ではない。その推測が正しいのかどうかも解らない。それよりも、今現実にある目の前の状況をどうにかするほうが先だ。
     繰り出される鉄索(ケーブル)や弾丸を躱し、あるいは弾き打ち落とし、陰人から距離を取ろうと走るものの埒が明かない。際限なく膨らんで行く体積は、見る見る内にこちらとの距離を縮めて来る。早くも足をふらつかせたナナキが遅れ始めた。呼吸が上がり、顔色がさらに白くなる。舌打ちしてナナキの腕を掴んだカゲトラは、有無を言わさず彼女を肩に担ぎ上げた。
    「ちょっ、なな何をするのじゃ!?」
    「うるせえ、ふらふら邪魔なんだよ!! 面倒くせえ!」
    「わかっ、解ったから! せめておぶってくれ! この姿勢……気持ち悪、い」
     うぷ、と口許を押さえる仕草をするナナキに嘔吐されては堪らないと、カゲトラは慌てて彼女を背負い直した。本当は背中に密着されるのがいろいろな意味で辛いためわざと荷物のように担いだのだが、そこのところの微妙な男心までは察する余裕がナナキにもなさそうだ。
     きゅ、と肩口辺りに置かれた拳が握られる。
    「あの男は人工的にマガツヒトを生み出そうと試みておった……故にヒナギクは他の個体とは違う状態であったのかもしれぬ」
    「……何かよく解らんが、あのくそ野郎が予定していたのとは違う不測の事態でこんなんなった、と」
    「他に理由は考えられぬ」
    「本っ当マジくそったれだな!」
     ぐっとナナキの口を噤んだ様子から、現状がどれだけ不味いのかはよく解る。
     ヒナギクが進化した陰人(オンヌ)は、彼女が普通のナレノハテとは異なる性質を持ってしまったのと同様、これまでの個体と同じではないかもしれない。つまりそれは――唯一の対抗手段である魔神兵装(ましんへいそう)すら、凌駕する存在になっているかもしれないと言うことに他ならない。
    「それで…………あいつ、殺せんのかよ?」
    「解らぬ……だが、あれが生物であろうと何であろうと、核となる動力機関を壊す以外に止める手立ては、ない」
    「ふん……それだけ聞けりゃ上等だ」
     不敵に笑うなり、カゲトラはナナキを下ろして廃坑の入口の僅かに無事な隙間に押し込んだ。
    「カゲトラ……主は一体、何を考えて……!?」
    「正直俺ぁな、他人を守って死ぬような殊勝な輩じゃねえんだよ。そんな自己満足なんか、くそ食らえだ。死んだら全部終わりだ。あとに残るものなんか何もねえ」
     爆発と度重なる衝撃のせいでぼろぼろの鉄屑と化している蒸気戦車の装甲に触れ、ぐっと拳を握り締める。
    「俺たち平民は、生まれた時から人間扱いされやしねえ。畜生と同じだと蔑まれ、塵のように踏み躙られて、搾取されて生き続けなきゃならねえ。こんなくそったれな国なんかいっそ滅んじまえって思いは、今も昔も変わってねえよ」
     適当な破片を突き立てて留め具部品を抜いてしまうと、カゲトラは半ば強引にシュラモドキの蒸気駆動を鍔部分から引き剥がした。ナナキは思わず息を飲んで目を見張る。今までに魔神兵装(ましんへいそう)をこんな無茶苦茶な扱いをした者を見たことがない。
     如何に刀身の強度はそれまでと変わらぬとは言え、これでは変幻自在に姿を変え、あらゆる武装で攻撃をしかけられる魔神兵装の強みが全く活かせなくなる。
    ――それでは丈夫なだけのただの刀と変わらぬ……主は嵐に鋼の棒切れ一本で挑む気か、カゲトラ!!
     それはもはや無謀などと言う段階ではない。焦燥のあまり恐怖のあまりとち狂ったと思われても仕方がないほどに、常軌を逸した行為だ。しかし、彼の双眸は決して自棄っぱちになったのでも精神が瓦解したのでもないことを示すように、炯々とした力強い光を湛えている。
    「だけどな、どんな地獄の底だって俺ぁ人間であることをやめたら終えだと思ってる。誇れなくたっていい、下らなくてもちっぽけでもいい。でも自分の信じる人の道を捨てちゃあ終えだ。生きるにしろ、死ぬにしろ、人として貫かにゃならねえものがある。曲げちゃならねえ、歪めちゃならねえ筋ってえもんがあるんだよ」
     言うなり、カゲトラは毟り取った蒸気駆動を車体の残骸に取りつけた。瞬く間に機巧が蠢き姿を変えて、ただの金属の塊に成り下がっていた戦車が飛空挺らしきものへと姿を変える。
     否、踏み板と翼と操縦機関だけの代物は、到底そんな上等なものではなかったが、
    ――こやつ……陰人が他者を取り込んで変貌したのを見ただけで、こんなとんでもない芸当をやったのか!?
     そもそも魔神兵装から蒸気駆動を取り外すなどと言う発想は、他の人間には出来ないだろう。
    「あのくそ野郎が本当はどんな奴だったかとか、あの女が本当はどんなことを考えてたかとか、今さらそんなこたぁどうでもいい。でも、こう言う終わり方は間違ってんだよ。やっちゃならねえ禁じ手だ。人間としてちゃんとけじめつけなきゃなるめえよ。ヒトとして生きたなら、最期もヒトとして死ぬべきだ」
    「やめろ、カゲトラ!! そんなの無茶苦茶じゃ!!」
     どうにか隙間から這い出ようと身動ぐが、上手く身体に力が入らないほど疲弊しているのと、器用に瓦礫を配置されてしまっているせいで、腕すらこれ以上伸ばすことが出来ない。
    「主一人で何が出来るんじゃ!?」
    「ナナキ」
     懐から取り出した煙草をくわえて着火具で火をつけてから、カゲトラはよく通る声でナナキの名を呼んだ。
     迫り来る陰人を見据えたままこちらに背を向け、振り返ろうとはしない。いつの間にか馴染んでしまった紫煙の匂いが、急速に遠ざかるような気がして、
    「テメーも忘れちまうくらい昔のことでも、ヒトとして生まれたんならヒトとして生きろ。例えテメーの身体が何だろうと、兵器として生きる必要なんかねえ。テメーの意思でテメーの守りたいもののために刀を取れ」
     鞴(ふいご)を踏み込むと、動力炉の炎がぼっと酸素を巻き込んで燃え盛る。忙しなく猛る喞子(ピストン)と回転する歯車、機巧が展開して蒸気を噴き上げる。
     刀一本を担ぎ、さながら鋼鉄の暴れ馬に跨がったかのようにして、カゲトラは陰人に向かって宙を駆けた。
    「俺ぁ、ちょっくらそのための露払いして来るからよ」


    →続く