「カゲトラ……っ!!」
     ナナキに名を呼ばれたような気もしたが、耳元でごうごうと唸る風の音にかき消されてよく聞こえなかった。襲い来る空気抵抗の圧力で上手いこと呼吸が出来ない。
     こちらを撃ち落とそうと伸ばされる鉄索(ケーブル)や機巧を掻い潜り、あるいは斬り捨て、カゲトラは徐々に高度を上げて行く。
    ――これぁ付け焼き刃だ……多分そんなに保たねえ……
     何しろ、カゲトラには魔神兵装(ましんへいそう)の扱い方の正しい知識などない。基礎的なところ最低限の操作法は教わったが、それだけである。ただ漠然と、この駆動がついているおかげで刀が変幻するならば、これを他の機械部品に取りつけても、何となくそれなりに望む形のものへ作り変えられるのではないか、と思っただけだ。
     無論、超一流の一振りの刀と廃材と化した蒸気戦車では、その性能など比べるべくもない。超一流の技術者が設計した魔神兵装と、俄か者が見てくれだけどうにかした飛空挺など比べるべくもない。けれどこちらの意図を汲んでくれたのか、想いを受けてくれたのか、シュラモドキはカゲトラが想像していたよりも遥かに「ちゃんとした」翼を彼に授けてくれた。
     吐き出される弾雨と灼熱玉の猛攻も、不思議と怖くもなければ当たる気もしなかった。
     蒸気の廃霧と硝煙と――この国の頭上を押さえつけるように常に覆っている鈍色の雲の群れに、半ば突っ込むようにして大きく迂回した飛空挺を飛び込ませる。
     これなら陰人にはこちらがどこにいるのか、正確な位置が掴めなくなるはずだ。その鼻先が掻き分ける大気が細かな飛沫となって、カゲトラの身体を濡らした。滑らぬように改めて操縦悍を握る手に力を込める。
     ヒナギクがどれほどの防御力を備えているかは計れない。先日見た陰人(オンヌ)は何やら分厚い毛皮に覆われたような表面であったが、今日の彼女はつるつるとした無機質な――金属とは違うものの奇妙な材質の体躯である。同じく全身を吹っ飛ばして動力部を破壊するにしても、果たしてその衝撃はそのまま伝わるかどうかは甚だ疑問だ。
    ――だから……
     きっとこの作戦を採ることを、ナナキは全力で反対するだろう。彼女の身体のことを案じる気持ちも多分にあったが、それよりも心配させたくなくて置いて来た。
     怒鳴られるだろうか。
     それともまた、思い切り殴られるだろうか。
    ――お前に今さらヒトとして生きろなんて、偉そうにもほどがある……でもな、
     それでも、あの時男を殺そうとしたナナキを見て、正気に戻った彼女が今にも泣きそうな顔をしたのを見て、
    ――お前ぇはいつもみてえに笑ってる方がいいって、ただそう思ったんだよ……
     あんな目に遭ってもなおヒトを想えるナナキは、ヒトが好きなナナキは、あんな愚劣でどうしようもない生き物をそれでも守りたいと言える彼女は、人の傍で生きるべきだと思ったのだ。
     霧の波を突き抜ける。
     その先に広がる空も、相変わらず濁った絵の具をぶちまけたような色合いだった。それを視界の端に捉えながら、そのままぐるりと宙返りをしたカゲトラは勢い任せに陰人の頭上を取る。
     と――
     ぶすん、と何かが詰まったような音がして蒸気を吐き出すはずの管が黒い煙を吐き出した。やはり見様見真似で機巧を組み上げたところで、本来は緻密に計算し尽くされたその複雑極まりない仕組みまで模倣することは出来なかったのだろう。
     しかし、そんなことは最初から承知の上だ。寧ろ叶えば御の字だと思っていた、頭上を取ると言う目的を達するまでは問題なく稼働してくれたのだから、カゲトラにしてみれば喝采を送ってやりたいところであった。
     重力に従って急降下するのに抗わず、空中分解してしまった飛空挺から再度蒸気駆動を引き剥がし、シュラモドキへと装着し直す。
    ――頼む……もう一回だけ、動いてくれ!!
     果たして炎と蒸気を吐き出した動力炉は、刹那で機巧を展開して最大火力を吐き出す長大砲へとその姿を変える。だが、のんびりと照準を合わせている暇はなかった。
     もう陰人(オンヌ)の鉄索(ケーブル)は牙を剥かない。弾丸も飛んで来ない。ヒナギクだった異貌の存在は、ただ嘲笑うように大きく口を開いた。最早その虚ろな闇の中へ成す術なく堕ちるしかないカゲトラを、優しく受け止めるように。
     無理矢理に力尽くで瓦礫を押し退けて、廃坑の入口の隙間から這い出たナナキは、転がるように縺れる足で駆けた。
    「カゲトラあああ……っ!!」
     その目の前で呆気なく、カゲトラは陰人の口腔内に吸い込まれるように飲まれた。


    →続く