ふしゅっ、と蒸気音を立てて分厚い鋼の扉が開く。
     広い室内は圧迫感を覚えないようにと配慮されて、暖かな色調の木板が張られ、床には厚めの絨毯も敷かれ、柔らかな瓦斯(ガス)灯の光に照らされているものの、無駄に高い天井のせいか、その下に蠢く冷たい鋼鉄の血が透けて伺えるようで、足を踏み入れる度にいつも喉元に切っ先を突きつけられているような心地になった。
     いや、真にこの部屋を冷徹たらしめているのは正面の上座、一段高い位置に設けられた豪奢な椅子に足を組んで背凭れている主人のせいだろう、と気付かれぬように唾を飲んでから、黒須は踵を鳴らして帝国軍式敬礼を型どってみせる。
    「ヒノモト帝国軍第十三大隊隊長、黒須泰介大佐、召喚命令に従い御前へ参上仕りました」
    「うん、ご苦労様。まあ、楽にしてよ黒須」
     にこりと笑みを浮かべて許可されたからと言って、本当に寛ぐ馬鹿はいない。
     冴え渡る鋼の刃のごとき美しさと鋭さを併せ持つこの青年こそが、若くしてこの国と軍部の頂点に君臨する現代の総督金烏(きんう)帝である。
     夜の天幕を紡いだかのごとき柔らかな黒髪、黒曜石のような双眸、甘い笑みを絶やさない物腰穏やかな紳士的態度は、実に絵に描いたように貴族然としていて、おおよそ荒事とは無縁なように見える。しかしその肚の底に燻る苛烈な魂は、己以外の全てを平伏させんとする爪牙を剥き出しにした肉食の猛獣以外の何者でもない。
     敬礼こそ解いたものの、普段の緩さなど微塵も覗かせない黒須を見やって、肘掛けに頬杖をついた姿勢のまま、金烏は傍らから書類を取り上げて笑った。
    「報告書、読んだよ。今回マガツヒトは随分な戦果を上げてくれたみたいじゃないか。街中に出現した陰人(オンヌ)の討伐に、ナレノハテの掃討、おまけに大事な研究資料と検体を盗み出したヒナタ博士の処分まで……まさに、八面六臂の活躍だ」
    「は……私も思った以上の働きに、ただただ驚いているところであります。今までのあれは、任務に消極的なところがありましたからな」
    「このカゲトラ君だっけ? これだけマガツヒトと共に連日出撃して生き残るなんて、実に興味深い。あれが懐くのも解る気がするな……これだけの腕があれば、影盗人(かげぬすびと)でも行けたかもしれないね」
     そう言いながら、書類に添付されたカゲトラの写真を見やる金烏の眼差しは、真冬の北海のごとく冷たく凍えている。
    「彼は玖街(くがい)でも札付きの悪たれで有名でしたからね。その話もないことはなかったんですが、何分あの気性と派手な立ち回りでは、隠密活動には向くまいと……」
    「確かに。英断だ、黒須」
     小さく肩を揺らしてくつくつと笑ってから、金烏は遊び飽きた玩具を投げ捨てる子供のように無造作に、ばさりと書類を放り出した。
    「とにかくこれは幸先がいい……『ツクヨミ計画』をこのまま進められるよう、お前はこのまま引き続きマガツヒトの管理をよろしく頼むよ、黒須。四大士族の名に恥じぬ働きを期待しているからね」
    「勿体なきお言葉……我が血、我が魂に懸けて必ずや果たしてご覧に入れましょうぞ」
     恭しく頭を垂れてお辞儀をする黒須に、席を立った金烏は一度胸に当てた右拳をばっと斜め上に振り抜いてみせた。朗々とした声を張り上げる。
    「ヒノモト帝国に栄光あれ!」
    「ヒノモト帝国に栄光あれ!」
     同じように返した黒須に満足そうな笑みを浮かべてから、金烏は踵を返して玉座を後にした。その際踏みつけた報告書になど目もくれない。
    「…………」
     この若き総督が覇権を懸けて世界に打って出た時、このまま従順に付き従っていれば自分の――引いては黒須家の未来は明るい。
     例え彼の歩く道が修羅畜生と蔑まれるものであろうとも、血塗れの道程にいくつ屍の山が築かれようとも、この若き破滅の魔王に魅入られた瞬間から、黒須の選ぶべき答えは決まっていた。
     そのためには何を犠牲にしようとも、
     そのためには誰を犠牲にしようとも、
    「私は地獄の底までお供しましょうとも」
     誰もいなくなった冷え冷えとした空間に、黒須の虚ろな声が響く。それに答えるものは、揺らぐ瓦斯灯の明かりだけだった。


    第一幕 完