「あいつ……こんなとこ私物化してやがったのか」
     遠慮なくきょろきょろと室内を見渡しながら足を踏み入れたカゲトラは、机の上に置かれていた分厚い冊子の一つを取り上げて徐にぺらりと頁を捲った。ただそれだけで降り積もった粉塵が舞い上がり、くしゃみと咳とが両方噴き出してえらいことになる。
     それでも中身は辛うじて無事だったようで、薄汚れてはいたが何とか文字は読めそうだ。ところどころ潰れたり何だりして、全文の解読は不可能だったが、カゲトラは電気灯の明かりにそれを晒して視線を走らせた。慣れぬ尖った光に目がしばしばする。
    「えーっと、何々……『帝歴一〇三年如月二十一日、ヒナギクが切った指の血が止まらぬと訴えて来た。聞けば、もう三日もじくじくと流血を続けていると言う。念のため、分析用に僅か血液を採取。変な植物でも触ったのだろうか?』……って、こりゃああいつの日記、いやヒナギクの経過観察の記録書か!?」
     急いで頁を捲ると、先へ進むに連れて几帳面に刻まれていた文字が徐々に不安定に乱れていくのが解る。
    『弥生七日、ヒナギクの血中に於ける血小板の奇形、並びに数の激減が何度調べても著しくおかしい。これでは流血が止まるはずもない。しかし、原因になりそうな病原体や毒素は発見出来ず、正直手の打ちようがない……』
    『卯月十三日、血液に腐蝕が見られる。血管も末梢部から駄目になって行き、何箇所か皮膚の壊死を確認。輸血も間に合わない状況』
    『皐月四日、一時心肺停止。辛うじて蘇生には成功したものの、意識は相変わらず戻らない』
     焦燥。苛立ち。困惑。不安。悲嘆。
     あらゆる感情が怒濤のごとく己の中に流れ込んで来そうになって、慌ててカゲトラは冊子を閉じた。本当はきちんと全てに目を通して、あの二人の兄妹に起こった出来事を正確に知るべきなのかもしれない。
     が、少なくともそれはこんな地下の閉鎖空間では無理だ。ただでさえ狂った感覚の状態を、さらに悪化させることにしかならないだろう。負の感情は容易く伝染する。
    ――っつっても、この膨大な資料抱えて帰る訳にも行かねえしな……
     ばりばりと後ろ頭を掻きながら背後を振り返る。
    「おい、ナナキ。こいつらどうす……」
     が、視線をやった先、真っ青な顔で俯いていたナナキは顔を背けて唐突に嘔吐(えず)き始めた。吐き出すものなど何もないだろうが、身体を丸めて震えているのを見ると、思わずぎょっとしてしまう。
    「おい、大丈夫かよ?」
     背中を擦りながら問えば、大丈夫だと言いたそうに片手が上がって制された。あまり見られたくはないのだろうと視線は逸らすが、急速に下がった体温を上げねば依然として気持ち悪さは消えはすまい。
     一体捕らわれている間どんな目に遭ったのかとも思うが、恐らく彼女の拒絶具合からすると、原因が今回の件だけだとは思えなかった。
     呼吸が落ち着いたのを見計らって立ち上がる。
    「すまぬ……もう、大丈夫じゃ」
    「ちっとそこ座ってろ。急がなくていいから」
     室内を検分しながら、何か持ち帰れそうなものはあるかと漁っていると、開けた机の引き出しにヒナギクの肚の中で見たのと同じ家族写真を見つけた。それと同時、研究者に贈られる最高峰の勲章も。金色のそれは随分と錆びついて色褪せていたが、裏返したそこには受賞者であろう丸眼鏡の男の名前が――ヒナタと刻まれている。
     それをじっと眺めていたカゲトラは、勲章をぎゅっと一度握り締めてから引き出しの中に仕舞い直した。
     これは、自分が興味本意で触れていいものではない。
     これは、他人が無粋な手で荒らして引っ掻き回していいものではない。
    「ナナキ、ここはしばらくこのままにしとこうぜ。上にゃ爆発で吹っ飛んじまったって報告しときゃ、知ってんのは俺とお前の二人だけだ」
    「……どう言うつもりじゃ、カゲトラ」
    「この中にゃ、軍部が隠してるお前の身体に関する資料もあるかもしれねえ。あの腐れ狸爺共が、お前に全部明かしてるとは思えねえしな。正直このまま知らねえふりで燃やして、灰にしちまうのは勿体ねえ」
    「それは……そうかも、しれぬが……」
    「でも、今探す時間もねえし見てる余裕もねえだろ。っつーか、ねえんだよ、俺が。脇腹超痛えの。だから落ち着いて出直してくれ。あともう限界だ、煙草吸いてえ」
     思い切り苛立った表情でそう言うと、ナナキは一瞬きょとんとしたような表情を浮かべてから、不意に小さく声を殺して笑い出した。ようやく頬に血色が戻って来る。
    「何じゃ……主は、でかい図体しておるくせに、まるで子供みたいじゃの」
    「うるせえな、ほらもう大丈夫だろ。行くぞ」
     促せば、ナナキは立ち上がって踵を返した。
    「のう、カゲトラ」
    「何だ」
    「わしは……いや、何でもない」
     ナナキが何を問おうとしたのか、大体のところは察したものの、カゲトラはふん、と鼻を鳴らしただけで敢えて重ねて問いはしなかった。その代わり、再び暗闇の中へ戻る際、放れぬように華奢な手を奪ってぎゅっと力強く握る。
    「…………」
     今度はすぐに指が絡められて握り返された。


    →続く